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いつのまにか廃れる

昨日のことである。
私はレジで一人、機械の掃除にいそしんでいた。特売日の翌日だし、チラシも入っていない。こういう日は比較的暇になる。埃の入り込みやすい機械の中を丁寧に掃除する、絶好のチャンスだ。
中にある入り組んだ溝の埃を丁寧に払っていたら、
「あのう、ちょっと良いかしら。靴のこと、お分かりになる?」
一人の女性客に声をかけられた。年齢は七十代後半といったところか。
「はい、いらっしゃいませ」
笑顔を向けると、彼女は困った様子を見せてこう言った。
「あのね、私ここでニ、三年前に靴を買ったんですけどね。底が剥がれてきちゃったの。修理ってして下さらないの?」

この手のご要望は時折ある。しかし、当店では修理を承っていない。そんな高級な商品のお取り扱いがないのだ。
セミオーダー、またはフルオーダーの、こまめに手を入れながら一生履くような靴でないと、お買い上げ店での修理というのはやっていないのが普通だろうと思う。一万円に満たないような合成皮革のシューズの修理なんて、やっている訳がない。常識で考えれば分かりそうなものだ・・・とは思ったが、そうも言えない。
できるだけ丁寧に頭を下げて言った。
「申し訳ございません。当店では靴の修理は承っておりません」
シンプルにそう答えると、お客様は気色ばんだ。
「どうして?私はあの時、随分高い思いをして買ったんですよ!なのに修理しないなんて、あなたたち、勝手すぎない?」
理不尽な言いがかりだなあ、とは思ったが、『高い』の感覚は人によって違う。私からみて安価だと感じるものでも、この方にとっては清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を以てお買いあげ下さった、特別なものなのかもしれない。
しかし申し訳ないが、どんなに責められても、やっていないものは引き受けられない。

「申し訳ないんですが、どんなご事情でも靴の修理は承れないんです。テナントさんに靴修理の専門店がありますので、そちらをご利用頂けないでしょうか?」
店には小さな修理店がテナントとして入っている。合鍵作成や靴の修理をする専門のお店で、スタッフが一人常駐している。靴売り場からは目と鼻の先だ。
なんとかなりそうだ、と思われたのか、お客様の表情は途端に明るくなった。
「あらそう。じゃ、行ってみるわ。ありがとう」
ちょっとホッとしてお見送りする。

数時間後、今度は別の女性客が困り顔でレジにやってきた。
「こちらで買ったものじゃないんですけどね。キャリーケースのバーが壊れちゃって。修理ってここでして頂けないかしら?」
この質問もとても多い。こちらの答えも決まっている。
「申し訳ございません。こちらでお買い上げの商品以外の修理は承っておりません」
「そうよねえ。困ったなあ。他の部分は何ともないから使いたいんだけど・・。どこか修理してくれるところ、ご存知ない?」
これもやっぱり先程と同じ修理屋さんをご案内することになる。
但し、いつもこう申し添える。
「バーの交換は最低でも五千円からです」
昨今、修理代は高い。キャスター交換なんて、一つ五千円からだ。四つだと二万円。まあまあ良いキャリーケースが新品で買えてしまう。
お客様はため息をついた。
「そうなのね。一度お尋ねしてみるわ。ありがとう」

ここに配属になった時、課長に
「傘、キャリーケース、靴の修理は基本的にやっていない。修理の相場は傘は最低でも千五百円から。キャリーはお買い上げのものなら応じるが、バーが五千円から、キャスターが一つ五千円から。配送料もかかる。靴はやっていない。お尋ねがあればそうお答えするように」
と言われた。
だから今でもその通りに答えている。
しかしお答えする度、いつも私の胸の中にちょっと違和感が生じる。

使い慣れたものを修理してまた大事に使いたい、というお客様の気持ちはよく分かる。私だって、ちょっと傷んだらポイっと捨てる、というのは性に合わない。
昔はヤカンや鍋なども『鋳掛屋さん』というのが巡回してきて、修理してくれた、と母から聞いたことがある。
いつの間にかなくなってしまった、昭和の風習だろう。
修理して使う、が当たり前ではなく、傷んだら捨てて新品を買う、のが主流になってきて、自分もそれを当たり前として受け容れている。
『ものを大切に』と育てられた人間としては小さな違和感を感じるが、店の人間としては今の私の対応が正解なのだ。

物を自分の元に届けてくれた多くの手に感謝しながら、慈しんで大切に使う。いずれは物の寿命も来るだろうが、その時がまだ来ていないと思われる商品を捨てねばならないのは心苦しい。
仕事中はしょうがないけれど、私一個人としては、そう感じる気持ちをいつまでも忘れないようにしたい。






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