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ビクビクさん

私の心には『ビクビクさん』がずっと長い間棲んでいる。
誰かが怒っていると、その怒りが自分に向けられたものでなくても、怖くなって縮こまる。いや、正確に言うと『怒っていると』ではなくて、『どうも雲行きが怪しいぞ』と感じるとそうなる。
『雲行きが怪しい』と自動的に邪推してしまう。そして表面上は平気を装いながら、内心では髪の毛が逆立つような恐怖を覚え、オロオロと狼狽えている。
怒られないかな。嫌われないかな。仲間外れにされないかな。
そんな気持ちが、ネガティブワールドに私を引き擦り込もうとする。

『ビクビクさん』の正体は小さな頃の私だ。
畳のヘリを踏んでしまい、それを見られた時。おやつを手を洗わずに口にした瞬間。汚してはいけないものを汚してしまったとき。食事中に食べ物を落としてしまった時・・・そんな時の小さな私が、五十代半ばになってもずっと胸の奥に棲んでいる。
疲れて帰ってきた夫の機嫌が悪い時など、『ビクビクさん』はひょっこり顔を出す。
怒られる、どうしよう。私は悪い子なんだ。どうやったら傷つかずに済むだろう。軽いパニックが自分の心の中に起ころうとするのがわかる。この思いは、実際のやり取りとは無関係に胸の中に急速に沸き起こり、何とも言えず不安で不快な気持ちになる。

私に対して理不尽に『あたる』人など、そうそう存在しない。夫は勿論、周囲にも思い当たらない。
私に『あたる』人ですぐに思い浮かぶのはウチの母である。『あたる』というのは『この人には好きなように自分の感情をぶつけていい』という、失礼で無遠慮で勝手な独断である。私はそんなことを許可した覚えはない。しかし、母の中では無意識に、自動的にそうなっていた。
私はそんな母の身勝手な振る舞いを受け入れることを交換条件に、必死で『親の愛』を得ようともがいていた。そこに自分に対する『愛』など、微塵もないことに長い間気付いていなかった。母が意識して私にそうしているのではなく、条件反射のような流れでそう『してしまっていた』のだ、ということに気付いたのはつい最近のことである。
今は私が『あたられる』ことはあっても、そう感じた瞬間に私の方で防護壁を作ってしまうので、『ビクビクさん』は攻撃されてパニックになることはない。攻撃は自分を傷つけることを知っているから、逆に攻撃し返すこともしない。
ただ目の前に起こっていることを冷静に見つめる。私が『当たられた』ときに行うのはそれのみ、である。

実は『ビクビクさん』が顔を出す時は、私が傲慢になっている時でもある。
今あること、持っていること、受けている恩、優しさ、思いやりといった数々の恵みを、当然のこととして受け取ってしまっている。本当は得難い、『有ることが難しい』ものであるのに、享受できていることへの感謝の念が吹っ飛んだ状態である。自分が傷つかないように守ろうと必死になるあまりの、悲しい傲慢さである。そこに気付かねばならない。
だから『ビクビクさん』が顔を出した時は自分を慈しむ。
『怖いね、嫌だね、不安だね』と私に寄り添う。負の感情が起こった事を、否定せずにそのまま受け入れる。本当は幼い時からの庇護者によって得られるべきだった絶対的安心感を、私が私に与える。
そうすると『ビクビクさん』は少しの疑いを残しつつも、ちょっとずつ安心して、警戒を解いていく。

警戒が解けていくと、やっと今私が当然のように持っている、有難い恵みの数々に対する感謝が自然と芽生えてくる。ああ、私はこんなにも恵まれているんだ、無理しなくても心からそう思えるようになる。心がほうっと温かくなり、優しくなれる。
そうすると、『ビクビクさん』はどんどん安心して小さくなっていく。完全に消え去ることは生涯ないけれど。
『ビクビクさん』は悪者ではない。私の一部分である。