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ピーマンは美味しい

味覚って突然変わるんだ、と初めて自覚したのは、小学校高学年の頃だったと思う。
それまではただ苦くて不味くて見るのも嫌だったピーマンが、ある日突然、とてつもなく美味しいと感じられた時だった。
特に産直のブランドピーマンだったとか、自分が天塩にかけて育てた、というものではない。どこにでも売っている、普通のピーマンをグリルで焼いて醤油をかけただけのものだった。
ピーマンってこんなに美味しい食べ物だったんだ、と子供心にいたく感動し、それ以来ピーマンは私の大好きな食べ物になった。
今思えば、あれが子供の味覚から大人の味覚に変わった瞬間だったのだろう。人間って不思議な生き物だなあ、とつくづく思う。

甥っ子はもう三十歳を優に越えているが、未だにビールが飲めない。苦くてとても飲む気になれないそうだ。
同じようにわさびも苦手らしい。回転寿司はさび抜きなので、安心して食べられるから好きなんだそうである。
彼は立派に社会人だし、二児の父親でもあるが、ビールが飲めないことで会社で肩身の狭い思いをする、なんてことは皆無のようだ。
今時はアルハラという言葉も立派に市民権を得ているし、そもそも酒の席というのが昔に比べてぐんと少なく、たまにあっても
「オレ、酒ダメなんで」
と言えば無理に勧められることもないらしい。
飲酒を無理強いされることが当たり前だった時代の人間である私などからすれば、今は本当に良い時代だと思う。

しかし、ビールの苦味やわさびのピリッと感を敬遠し続けて人生を終えるのはちょっと勿体ないような気がする。
どっちの道を選ぼうと甥っ子の自由なのだけれど、ものは試しで、いっちょ口にしてみればいいのに、と思う。『食わず嫌い』という言葉もあることだし。
甥っ子の味覚だって、きっと変化してきているに違いない。
夏の暑い日、一仕事終えて飲むビールって最高に美味しいんだよ、というのだが、彼はコーラでも十分この満足感を得られるそうで、別段不便は感じていないそうだ。
お節介オバサンは、最早何も言うまい。

かく言う私は最近急に、インスタントコーヒーが飲めなくなった。
つい最近までは、毎朝飲んでいた。食事の後の口直しのつもりで、インスタントだとかいうことは特に意識せず、ただ流し込むように惰性で飲んでいた。
しかし何日か前のある朝、いつものようにコーヒーを口にしたところ、『なんだこの不味い茶色い液体は!』と戦き、思わず吐き出してしまったのである。
この日に限って違う作り方をしたわけではない。粉の量もお湯の量も普段通りである。私の味覚に突然変異が起きたとしか思えなかった。
以来、ドリップ式ではあるが、本物?のコーヒーを淹れている。苦味、酸味、香りなど全然別物である。
もうインスタントコーヒーには戻れそうもない。目下、大量に残っている粉をどうするか、思案中である。

味覚の変化はピーマンの例にもあるように『一人の人間の成長過程』の表れであると同時に、大いに『その人の内心の変化』が出るものだとも思う。
私の中に『ピーマンは不味い、嫌だ』という思い込みがあったのが、ある瞬間に急にごそっと外れ『食べてみたら案外美味しかったりして』となったわけである。しかしなぜ外れたのか、今もって全く分からない。成長期の旺盛な食欲がそうさせたのだろうか。
同じように、『インスタントでも、忙しい朝ならコーヒーと名の付くものを飲めればそれで満足だ』と無意識下で思っていたのが、ある日突然、『朝からこんなクソマズいもん、飲めるかあ!』とちゃぶ台返しをせんばかりになってしまったというのは、私がそれまで暗黙の裡に容認していた『マズイコーヒーを飲む自分』にいきなり我慢できなくなった、ということである。
この瞬間がいつやって来るか、本人にも全く予想がつかない、というのが、人間の面白いところであると思う。

思うに、きっと意識しないうちに
『このコーヒーって美味しくないと私は思ってるな。なのにどうして毎朝、飲んでるのかな』
という疑問が小さな水滴が落ちるように少しずつ少しずつ、私の心のバケツに溜まっていったのだろう。
やがてそのバケツがいっぱいになってあふれ出して初めて、
『なんじゃこれ!こんなの飲めるかあ!』
となったのだと思う。

息子が子供の頃、嗜好が急に変わって驚くこともあったが、その変化は必然だったのだ、と今は思える。
人間って、いつまでも成長し続けるものなんだ。畏れ多くも興味深い。




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