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ギャン泣き

今日は穏やかな日和である。花粉が恨めしいが、こういう日に休みに当たると得をしたような気分になる。
休みの日のルーティンで、神社への散歩を兼ねて買い物に行くことにした。
玄関を出ると、澄み渡る高い青空が目に飛び込んでくる。どこかから梅の香りがほのかに漂ってきた。春が近づいていることを感じて、鼻歌が出そうになる。

いつも通る大きな交差点に差し掛かると、一人の女性が一生懸命ベビーカーの赤ちゃんに向かって話しかけていた。
「ほーらほら、どうしたの?大丈夫、もうすぐお家だからね~」
しかし赤ちゃんはお母さんの声なんて全く耳に入らないようだ。最大級にギャン泣きしている。後ろから見ていると、小さな小さな裸足の足が上下に激しくブンブン動いて、ベビーカーが揺れている。これはかなりの抗議活動だぞ、敵は手強い、お母さんファイト、と思いながら見ていると信号が変わったので、追い抜きざまにベビーカーの中の姫(多分女の子だと思う)の顔を拝ませてもらうことにした。

まあ予想通り、涙と鼻水とよだれで彼女の顔は気の毒なくらい、訳が分からない状態である。それでもまだ彼女は声にならない声を張り上げて、母親に、周囲に、自分の主張を訴えている。
経験者の推察によると、あれは強烈に眠い時の泣き方だ。きっと家に着く頃には姫の目はトロンとしているに違いない。もう少しの辛抱だ。母も子も頑張れ。
そんな風に思いつつ、ああ、私にもこんな時期があったなあ、とひとりでに笑みがこぼれる。
あの時は困りに困ったのに、今はただ懐かしく愛おしい時間にしか思えない。そして赤ちゃんが何を訴えて泣いているか、が何の苦もなく分かるようになってしまったのも不思議なことだ。
今の心の余裕があの頃の私にあったならなあ。

振り返れば、あの頃の私は泣かすまい、泣かせまい、と必死になり過ぎていたように思う。
赤ちゃんとはいえ、『泣かせまい』というのはそれこそ正に、自分とは別の人格を持った人間を、自分の思うようにコントロールしようとしていた行為に他ならない。子供は口がきけないながら、いやきけない故に余計に、そういう親の勝手なコントロール下に置かれることに、全身で拒絶反応を示していたのだろう。
今ならごく当然のこととして、その理屈が腹に落ちる。
『自分のせいで我が子がギャン泣きしている』なんて、罪の意識を感じて焦ったり、落ち込んだりすることはなかっただろう。

あの頃の私は
『うるさいな。子供が泣くのは親がちゃんと愛情をかけてやっていないからじゃないのか。しっかり育児しろよ、みっともない。母親失格だろう』
という、自分の胸の内で勝手に作り上げた世間の声に過剰に反応して、そう言われまいと必死になってもいた。そして、自ら孤独の沼にドンドンはまり込んでいった。
そういう必死で孤独な母親の心境を、赤ん坊は敏感に感じ取る。自分の一番身近な信頼する庇護者が、なんだか危機的な、余裕のない様子だぞ。こんな状態で、自分はちゃんと守ってもらえるのだろうか。母親の不安が子供の不安を呼ぶ。
不安になって泣きまくる子供を見ると、母親の不安は更に増す。更に子供は泣く。負の堂々巡りである。
渦中にいる時は分からなかったが、私はこれを延々とやっていた。

子育て支援というけれど、金だけが支援ではない気がする。確かに金銭的に切羽詰まれば、精神的にも肉体的にも余裕をもって子育てをするのは難しくなるから、必要だとは思う。が、子育て関連のニュースを耳にする度、何か言葉にしづらい違和感を感じることが多い。私だけだろうか。
誰もが直面する子育てのしんどさを、ちょっと誰かが分かってくれるだけで随分違う。要はお母さんが色々な面で、『孤立無援』の状態にならなければ良いのだと思う。
子供は泣かせるのが不正解で、泣かさないのが正解なんてことはない。身体の異常を訴えて泣くことだってあるのだから。
ギャン泣きに込められたメッセージを母親だけでなく、多くの周囲の人間がちゃんと受け取ることさえ出来れば、きっとギャン泣きの頻度は減るのだと思う。
赤ちゃんのギャン泣きはお母さんのメッセージであることもある。だから赤ん坊の意図を察するのを、お母さん限定の仕事にしてはいけない。

子育て真っ最中のお母さんは大変である。
赤ちゃんがギャン泣きして困っていても、心の中でこっそり応援している元新米お母さんもいっぱい居る、ってことを時々は思い出してもらえると、少しでも心が軽くなるかなあ、と思う。
姫のご就寝はきっともうすぐ。お母さん、大丈夫、ファイトですよ!
賑やかなベビーカーを早足で押すお母さんを見送りながら、そっと昔の自分を重ねた。