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「良い音」を求めて

「良い音が出せるようになりたいんです」
クラリネットを習い始めた頃、師匠のK先生に言ったことがある。
「誰でもそう思いますね。そう思うのは素晴らしいことです。では、貴女の言う『良い音』ってどんな音ですか?」
そう言われてはたと考え込んでしまった。
「先生みたいな音とか・・・」
迷いつつ言葉を絞り出すと、
「僕の音が良い音ですか?では貴女はどうしてそう思うのでしょう?考えたことがありますか?」
容赦ない追及が突き付けられる。
「・・・いえ・・・」
こうやって考えこんでしまうことにいつもなる。

先生は私が答えづらい質問をよく投げかける。
なぜ「答えづらい」のかと言えば、「イメージが曖昧」だからである。「イメージが曖昧」なままでは、目標とするところが曖昧になってしまう。ゴールがわからないまま、走り続けるのは難しい。
先生の目的は、私に自分の曖昧さを悟らせ、イメージを自分の言葉で表現することによって具体化させることであると思う。目指すべき目標がはっきりすると、どうやってそこに辿り着くか、人は誰でもそこから逆算して考えるから、より効率的な練習をすることができるからだ。
恐らくご自分がこういう思考のトレーニングを繰り返して来られたのだと思う。

では私の思う『良い音』とはどういう音なんだろう。
プロの演奏家の音を聴いて、
「わあーこんな音出したい!出せたら良いな!」
と心から思うような音が、私にとっての『良い音』なのかなあ、とは思う。
そもそも『音』を言葉で表現するのは難しい。抽象的な物を言葉で言い換えるのは限界があるからだ。
そして一口に『プロの演奏家』と言っても、人の数だけ個性がある。同じように聴こえることはない。それは聴く方の個性も反映していると思う。
ますます『良い音』の定義づけは難しい。

先日クラリネットのメンテナンスに楽器店に赴いた時のことである。
この店は各楽器ごとに受付ブースが分かれている。クラリネットのところへ向かう途中、廊下に素晴らしいクラリネットの音が聴こえてきた。ドビュッシーの『小組曲 小舟にて』だ。K先生に「あなたにはまだ難しすぎます」と吹くことを許されなかった、私の憧れの曲である。思わず立ち止まり、目を瞑って息を深く吸い込んだ。
豊かな響き。正確な音の立ち上がり。一糸乱れぬ音程。一音一音に感じる表情。よどみないフレージング。間違いなく『プロの演奏家』である。
邪魔にならないように、離れたところからそうっと後ろ姿を覗き込む。彼女は大きなキャリーケースを脇に置き、何本かの楽器を並べて吹いていた。背中から強烈な集中力が滲み出ていて、圧倒された。
楽器の※選定(楽器屋が『これはプロのお墨付きの良い楽器ですよ』と言って売る楽器を選ぶ作業もプロの仕事としてある。『選定料』というお金が楽器代に上乗せされ、楽器店とプレーヤーに入る)に来たのかな。それとも全部自分の楽器で、メンテナンスが終わったあとの確認作業をしているのかな。
いずれにしても素晴らしい音色に、しばらくうっとり聴き入ってしまった。

彼女の音色を私が『良い音』だと思ったのはどうしてなんだろう?とぎゅうぎゅう詰めの帰りの電車に乗りつつ、考えてみた。
『響きが豊か』『音程が正確』『遠くまで飛ぶ』『一音でも表情がある』『言いたいことが音でわかる』・・・どこまで考えてもきりがない。
『良い音』の条件に『大きな』というのを加える人もいる。どんなに綺麗な音色でも、遠くまで届けられないと意味がない、という訳だ。
しかし何を以て『大きな』というのか、これもまた注意が必要な表現である。ただ単に『大きな』音というだけでは、『良い音』にはならない。『騒音』になってしまってはいけない。
『そば鳴り』という言葉がある。ざっくりいうと、『近くには大きくよく聴こえるが、遠くには聴こえない』という音のことだ。多分倍音が少ない、がなり立てるような音がこれに当たるのだろう。プロが最も忌み嫌う音でもある。
少ない息しか入っていないか、或いは沢山の息を入れてはいても、『的』を絞らず闇雲に楽器に送り込むとこういう音になるのだと思う。

私にとっての『良い音』はどんな音なんだろう。
ロングトーンをしながら、「今のは良い音かなあ?」と常に自問している。体調が良い時、気候が安定している時、気持ちが上向き気味の時、は『良い音』と感じる音を鳴らすことが出来るようだ。
自分ではどうにもできない環境によるところもあるけれど、K先生が仰るように「言い訳せず」、沢山の演奏家の『良い音』を聴いて、自分の『良い音』を作っていきたい。
『良い音』の追求は、「これで終わり」ということはない、楽しい自問自答の作業である。