遠くから見れば喜劇
今年は家族揃って穏やかな年末年始を過ごせているが、一昨年から昨年にかけてはジェットコースターに乗っているような年末年始だった。今でも時々思い出しては夫婦で笑っている。
姑が「正月の間来てくれ」と言ったのが十二月の下旬だった。いつも姉にばかり負担をかけてしまっていることだし、正月くらい行こうか、と話して予定していたところ、コロナの何度目かの流行のピークとかち合い、姑から「やっぱり怖いから来ないで」と言われたのが暮れも押し詰まった三十日だった。それならこっちで正月だねえ、とそこからおせちの材料やらなんやらを買い込み、準備を始めた。
ところが翌日の大晦日の昼頃、姑から
「やっぱり寂しいから来て欲しい」
と死にそうな声で電話が入った。
ここから姑宅までは車だと片道約五時間以上かかる。姑は始め姉に来てくれるよう懇願したが、「何回コロコロ言う事変えるねん!今更知らん!」と怒って電話を切られてしまったという。姉の家には元旦に四人の孫と六人の大人がやってくる。そもそも姑を相手するのは無理だ。毎日毎日、自分の体調の悪い時でも足繫く通って姑の世話を焼いてくれている姉にすれば、正月くらい長男夫婦にみてもらってくれ、という気持ちになっても当たり前だと思う。
が、急すぎる。しかし動けるのは私達しかいない。大慌てで洗濯物を取り込み、荷造りを適当にして出発したのは午後二時を回っていた。
行く前に私の実家の母に電話して、別宅を貸してほしい旨頼んだ。姑宅は私たち二人が泊まるには色々難儀なことが多い。幸いウチの両親が母方の実家だった家を改装して置いており、寝泊りが出来るくらいの部屋と簡単な調理器具もあるので、そこを借りることを思いついたのである。鍵は随分前に貰っていたので問題はなかった。
私が両親に「いい加減子離れしてくれ」と言って関係を断ってから、丁度半年くらい経っていた。半年以上ぶりに娘からかかってきた電話がいきなり「正月三が日家貸して」だったから、両親もビックリしただろう。が、両親は何のわだかまりも感じさせない様子で、いいよいいよと言ってくれた。私の方にも妙な遠慮の気持ちは起こらず、「助かる!ありがとう!」という心の底からの感謝の言葉が出た。
あまりにもすんなりすっきりし過ぎていて、笑いそうになったくらいだった。ひょっとしたら勝手に両親にわだかまりを感じていたのは私の方だったのかな、と思った。
夫は私に決して車の運転をさせず、ぶっ通しでハンドルを握った。
途中、ナビが「休憩しませんか?長時間運転しています」と言った時だけ、ほんのわずかな時間サービスエリアに寄ってコーヒーを飲み、トイレに行き、軽く体操をしてまた運転し続けた。
この日は珍しく名古屋付近でひどく雪が降った。こちらはスタッドレスタイヤだし、北陸生活が長かったから雪道の運転には慣れているが、周囲の車は明らかに怖そうでスピードはぐんと落ちた。おまけに丁度薄暮の時間帯で見通しは悪く、夫は一層疲れたと思う。
なんとかかとか姑宅にたどり着き「近くにいるから安心しいや」と告げたのは夜九時を回っていた。そこから借りている家に行き、荷物を下ろすともう十時前だった。
家で年越しをするつもりで買っていた生そばを持ってきていたので、とりあえず調理することにした。勿体ないからと持参した、煮かけの黒豆を火にかけ続きを煮た。
出来上がったのは何ものっていないそばと、まだ調理が完了していない大量の黒豆。近くにコンビニはあったが、時間も遅いし寒いし疲れ切っているし、もうこれでいいやと言うことになった。
この家には簡単な調理器具はあるが、まともな食器や茶わんは揃えていない。汁物を入れられそうな器はラーメン鉢が一つあるだけである。しょうがないので夫はその鉢で、私は手鍋を使って、割りばしで年越しそばを食べた。おかずは黒豆のみだ。
でも私はなんだか一連の経緯がおもしろくて、
「お疲れ様。面白い年越しになったねえ!」
と夫に言った。
夫は目の下にクマの出来た顔に意外そうな表情を浮かべ、
「お前、ホンマにそう思ってる?」
と聞いた。私はケラケラ笑いながら、
「うん、鍋で年越しそば食べるなんて笑えるやん」
と答えた。すると夫は肩を落として小さな声で、
「ありがとう。お前がそう言ってくれたら救われた気になる」
と言った。
忘れられない年越しになった。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」
チャップリンの名言に腹の底から納得できた年末だった。