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脳と子宮

先日、本当に久しぶりに夫と派手な喧嘩をした。
聖人君子ではないけれど、争いは心を擦り減らすし疲れるし、何一つ良いことはないと思っている。それが分かっていながら敢えて言い争いをするのは、なんともバカバカしい。
しかし何かの加減で、双方の心の歯車がうまく嚙み合わないときはやっぱりある。
この時が正にそれだった。

最近、私が新人のIさんの教育をほぼ全般にわたって任されていることは、つい最近も記事にした。
この仕事のせいで、最近の私は疲労困憊気味だ。自分でもわかるくらいイライラしている。
Iさんは大変真面目で一生懸命な方である。人柄も良い。むくれたり、サボったりも絶対にしない人なので、変な気苦労をしなくて済むのは大変有難い。
ただ残念なことに、噛んで含めるように説明しても、物事の理解がなかなか追いつかない。初めの内は『初めての人はこんなものか』と思っていたが、どうも常軌を逸していると思われる場面が多い。
昔、なにかで『境界知能』という言葉を聞いたことがある。知能テストでもしないと明確なことは分からないだろうが、彼女は多分それじゃないかと密かに思っている。
ご本人も辛かろうが、私も非常に負担が大きい。教えることを小さく小さくみじん切りにして、一つ一つクリアできるように考えてやってもらっているが、イチイチ骨が折れて大変である。
それに見合う給料をもらっていないことも、私の神経を逆撫でする。本人を責められないのも、なんとも苦しい。
頼りになる社員は皆午後出勤の為、午前番の私は誰にも相談出来ない。
八歩塞がりな気持ちだった。

夕飯後、夫にちょっと話して聞いてもらおう・・・と事の次第を話し出したら、夫はやおらタブレットを持ってきて、境界知能についての講釈を垂れだした。
ウンザリした。今はそんなこと、聞きたいんじゃない。
私の中で何かがプツンと切れた。
「うるさいなあ!私は聞いて欲しいだけやのに!講釈要らんわ!」
私はそう叫んで、音を立てて立ち上がると食器を荒っぽく洗い、夫の顔を見もせずに二階の自室に引き籠った。
「なに怒ってんのや!一人で勝手にプリプリ機嫌悪くして、知らんわ!」
夫が階下から怒鳴る。勿論返事などしない。東西ならぬ、上下冷戦の始まりである。
小さなドンパチはちょこちょこあるが、ここのところ戦闘停止状態が長く続いていたのに。
平和が崩れ去る時は呆気なく訪れる。

プンプンしたまま床に入っても、身体も心もクタクタだからぐっすりと眠れる。朝起きると、前日の疲れがウソのようにすっきりしていた。
すると前夜の諍いが悔やまれた。
謝りたいと思ったが、どうしても素直になれない。聞いてくれなかったという気持ちがまだ引っかかっている。
結局、笑顔で送り出すことしか出来なかった。

そのまま仕事に行った。
Iさんは今日も涙ぐましいくらい一生懸命である。どうしてあげれば良いのだろう、と困惑しつつ仕事を終えようとしていた時、レジ教育係のGさんがひょっこり覗きに来て、声をかけてくれた。
「Iさん、どう?」
私はホッとした。やっと聞いてくれる人がいた。
「真面目で一生懸命な良い人です。でもあまりにも覚えられません。ちょっと普通じゃないと思います。こういう方は初めてです。教え方が分かりません・・・」
私が小さな声で困ったように訴えると、聞いていたGさんは
「なるほど、そのタイプか。大変だね。今のやり方で良いとは思うけど、在間さん一人じゃ、しんどいやろう。レジは私も時々サポート入るようにするよ。今日Yさんにも会うから、言っとくね」
と言って、肩をポンポンと叩いてくれた。
物凄く気分が楽になった。

その日、夫と夕飯の食卓を囲んで『いただきます』をする前に、
「昨日はイライラしてごめん」
と素直に頭を下げることが出来た。
「Gさんにね、話聞いてもらえたん。協力してくれるって言うてくれはった。ホッとした」
そう言うと、
「おう、誰でもイライラする日もあるわな。謝らんでもエエ。しんどかったな。分かってもらえてよかったな」
と言って、夫はニコニコした。
目出度く和解成立、である。

でも結局、あの場面でタブレットを持ち出す、という自分の行為を、夫がどう思っているのかは分からずじまいだった。きっと分かっているけれど、口に出すのは癪に障るから黙っているんだろう。
まあ、それでいい。
どこまでも脳で考える夫と、いつも子宮で考える私の意見が相容れることなんて、本当はないのかも知れない。その事実をお互いが理解しつつ、時にはぶつかりながらも、静かに相手を受け容れていく。
私達夫婦は延々と分かり合えない、でも死ぬまで分かり合おうと努力する者同士なんだ、と思う。










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