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呼ばれた?

北陸に住んでいた頃、実家に帰省する折にはいつも特急サンダーバードを利用していた。ウチは駅から近かったし、小さな子供連れだったから、乗り換えなしで大阪駅まで行けるのは有難かった。あまり混んでいることもなく、利用しやすい列車だった。
サンダーバードは湖西線(琵琶湖の西岸を通る路線)を経由する。琵琶湖の西岸は「比良おろし」といって比良山から吹き降ろす風が強い。周囲は一面の田圃で遮るものとてなく、列車はまともに風を受けるから、強風が吹くと止まったり、東側の路線(私達は「山科経由」と言っていた)を回ったりして定刻より随分遅れて大阪に到着することもよくあった。

ある時帰省するべく駅のホームに行くと、この強風の為列車が遅れている、とアナウンスが入った。またか、しょうがないなあ、と手持無沙汰に列車の到着を待っていたら、携帯に母から連絡が入った。
今アナウンスがあった所なのに、もう遅延がわかったのかなあ、と不思議に思って電話に出ると、
「あんた、来るのちょっと遅らせてくれへんか」
という。
「いや、今ちょうどアナウンスがあって、これこれで遅れるよ。電話しようと思ってたとこ」
と告げると驚いた様子で、
「お隣のおばあちゃんが亡くなってん。お隣やし色々手伝わなあかんから、最初に言ってた時間やと迎えに行ってあげられへん。お父さんも二人共いないから、って言おうと思ってたんや。偶然やな」
と言った。

「お隣のおばあちゃん」はNさんと言う。娘夫婦と三人で住んでいた。娘夫婦には子供がいなかった為か、Nさんは私達姉妹を孫のように可愛がってくれた。
クリスマスにはホールケーキを持ってきてくれたし、お年玉をもらったこともある。旅行に行けば必ずお土産を持ってきてくれた。こちらも修学旅行のお土産を渡したり、成人式の写真を見せに行ったりもした。
小学生の時には、帰宅した時に母が留守だったりして鍵のかかった家の前でボンヤリ待っていると、
「お母さんお買い物か?ウチで待っといたらええ」
と言って、家に招き入れてお菓子やジュースを出してくれた。
大変清潔好きなNさんは、いつも家の中をピカピカにしていた。同じ造りの家でも、ウチと違っておばあちゃんとこはこんなに綺麗なんだなあ、と子供心に感心したものだった。
庭に面した日当たりの良い部屋には小さな仏壇が置いてあり、セピア色の軍服姿の男の人の写真が飾ってあった。Nさんの夫だと思われた。南方戦線で亡くなった、と聞いたのは随分大人になってからである。

Nさんはずっとお元気だったが、亡くなる二、三年前には仏壇のあるあの部屋で一日中寝ていることが多くなった。私が結婚する時はまだお元気で、挨拶に行ったら涙を流して喜んでくださったのだが、子供の姿を見せたのは窓越しだった。半身をベッドに起こして、子供の方を見て笑って手を振って下さったが、その手はもうかなり力がなかった。
そして子供が歩けるようになった頃、Nさんは亡くなった。九十六歳の大往生だった。

年に三回くらいの帰省をする時に合わせたように亡くなったなんて、本当に偶然としか言いようがない。しかもウチの両親が私達を迎えに行けるよう、Nさんが細工したように列車は遅れた。
こんなことってあるんだなあ、と不思議だった。

葬儀に子供と行ったら、娘さん夫婦は大変驚いて、
「ミツルちゃん、わざわざおばあちゃんの為に北陸から帰ってきてくれたんか?」
とそばに寄ってきてくれた。
母が事情を話すと、
「おばあちゃん、ミツルちゃん大好きやったからなあ。きっと呼んだんやな。えらい偶然もあるもんや」
としきりに感心して涙ぐんでいた。
遺影のNさんは、幼い頃から見慣れた真っ白な割烹着姿で微笑んでいた。
私はしゃがんで、子供の手を自分の手に包み込んで合掌した。

もう娘さん夫婦も亡くなって久しい。隣は今空き家になっている。
しかし今でも帰省して隣家を見ると、重い鉄の門扉を開けてNさんが手招きしてくれるような気がする。
あの偶然は何の成せる技だったのだろうか。今でも不思議な思い出である。