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撮らないンです

豪華な食事を目の前に並べられたり、友人と久しぶりの再会を果たしたり、滅多に見られないものを見せてもらった時などには、人は必ずと言って良いほど、その被写体に向かってレンズを向ける。
そうやって撮られた写真の数々が、あらゆるものにすぐにアップされる。すると発信者が伝えたいことが、よりリアリティをもって見る者に伝わる。
写真を撮るということはメッセージを伝えることなのだ、と感じる瞬間である。

夫はカメラオタクでもある。
家の中にはまるでバズーガ砲みたいなでかいレンズや、様々な三脚、被写体の周りの明るさを調節する板(名前知りません)まである。変な人だと思う。カメラバッグやカメラ本体、レンズも嫌になるほどある。
引越しの時は『これはどうしても引っ越し屋のトラックに積みたくない』と言い張り、全て自分の車に積んだ。おかげで移動中は、カメラと楽器に埋もれてとても狭い思いをした。

一緒に食事に行くこともあまりないが、行くと必ずと言って良いほど、夫は運ばれてきた料理にレンズを向ける。
旅行に行けば嬉しそうに撮って撮って撮りまくる。新婚旅行の時など、夫は私の存在を忘れてしまったようにあちこちにレンズを向けていた。あまりにも寂しくて拗ねた私と、そんな酷いことをしたつもりは露ほどもない夫との間で口論になってしまったくらいだった。

だが私はというと、全く写真というものに興味のない人間である。
子供が学校に通っていた頃も、カシャカシャやりまくっている周囲の親御さんを、『撮るより見たりいや』と冷ややかな目で見ている嫌な奴だった。
レンズを通して見ること、それを記録に残すこと、に全然心が浮き立たない。遠く離れた子供の祖父母が『見たい』といった時だけ、申し訳程度に撮っていたくらいだった。
だから我が家の古いアルバムには、私の撮った写真というのがほぼ皆無である。

周囲の人々が非常に自然に嬉しそうに撮っている姿を見ると、私はなんでこんなに撮るのが億劫なのか、と考えることがある。
一つには腕に自信がない。美的センスというものにまるで恵まれていない、と固く思い込んでいる。そういう人間が撮った写真が、魅力のないものであることを本能的に知っている。『良いねえ』と歓声を上げる写真が出来上がらないことも分かっている。
つまり私が写真を撮るのが嫌いなのは、
『撮ることによって自分がちっとも満足できないから』
なんだと思う。

この場合の『満足』は『他者からの称賛を受けること』なんだろうか。
それも全くないとは言えないだろう。
しかしそれなら『楽器を演奏すること』はどうなんだろう。『他者からの称賛』なんてどうでも良い。いつも吹いていたいと思う。
『今日はダメだったなあ』と合奏終わりに凹むことはあっても、それで『練習したくない』という気持ちにはならない。
『文章を書くこと』も好きだが、書いたものが素晴らしい評価を得ないからといって、書くのをやめようとは思わない。書いているとただ楽しい。
これこそが『下手の横好き』なんだろう。

皆が写真を撮っているからって、私も撮らなくて良い。
それはごく当たり前のことなんだけど、あまりにも多くの人がすぐにレンズを向けるような場面に遭遇すると、スマホに全く手の伸びない自分がおかしいのではないか、という気にさせられることがある。
皆で豪華な食事に行った時など、店の人が気を遣って
『お写真撮られますか』
なんて訊いてくれることもあるが、私はいつも撮らない。
面倒くさい。私よりずっと上手に誰かが撮っているものを貰えば良いだけだ、と思っている。ずうずうしく人をあてにしているが、自分から『頂戴』とは言わない。『写真、要る?』と訊かれるのを待っている、小狡い人間である。言われなければそれでも良い。

この『撮ること』への執着のなさはなんなんだろう。
現代に於ける『映える』ことの重要性をよく理解していない、という『時代遅れ』の人間だ、ということは間違いがなさそうだ。
いつも周囲がレンズを向けている中で一人、そのものを自分の目で見ているだけで惜しいとも思わないし、撮らないことに信念も何もない。写真を残したいという欲求も湧かない。
結局単に面倒くさがり、なんだろうな。





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