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良い風の吹き回し

同じ楽団のクラリネットのJさんは、ちょっと前まで随分後ろ向きで、なかなか暗い人という印象だった。
コンクール直前には、みんなにとてもついて行けないから、もう少しレベルの低い楽団に入りなおそうと思っている、などと言っていたし、臨時徴収があれば金が要るなあ、とブツブツ言い、私語をしている人間には直接注意は出来ないが気になってしょうがない、と文句だけをタラタラいう。上手い人が入団してくれば拗ねる。一緒にいてなかなか「しんどい」人であった。

自分のことを強烈にダメな奴、と思い込んでいる風なのも、一緒にいてしんどい理由の一つだった。
Jさんが自分のことをどう思おうと個人の勝手ではあるが、すぐに「どうせ僕なんて」とじめっとした空気を漂わせる人には、人はあまり寄っていかないものである。
多くのメンバーはJさんを避け、彼はいつも孤立しがちであった。

そのJさんがここ最近、とても熱心に練習に参加するようになった。仕事のなんのと理由をつけてずっと来なかった個人練習にも、最近は来る。
新しいパーツを買ったりして、楽器にもこだわりをみせるようになった。以前は「高くて買えない」とぼやいていた人とは思えない。4万円程するバレルをいきなり買ったのである。みんなびっくりしていた。

バレルはマウスピースの下につけるパーツで、音色に非常に大きな影響を与える。だから初めから楽器についている、純正のものではないのをつけることも多い。私も付け替えている。
しかしそんなことにはまったく関心がなさそうだったJさんが、ポンと高級品を買ったのだ。みんなが驚いて当然だと思う。

団長もパートリーダーも「いい傾向」ととても喜んでいる。今までもう辞めてしまいそうに思うくらいやる気のなかった人が、俄然やる気になったのだから、嬉しくて当たり前である。
私はあまりの急激なJさんの変化に戸惑いつつ、一緒に吹く仲間が楽しそうにしているのを見るのはやっぱり嬉しいので、歓迎の気持ちだった。でもやっぱり一抹の疑念が拭い去れなかった。どういう風の吹き回しだろう。

先日、その疑念が解消された。
Jさんの最寄り駅は私の一つ隣で、帰り道はいつも大体同じ電車になる。車中で話を聞くことができた。
なんのきっかけだったかはとうとう教えてもらえなかったが、もっと上手くなりたいと思ったそうで、プロに習いに行っている、と照れ臭そうに話してくれた。それは照れ臭いだろう。「もう近々辞める」と言っていた相手に、真逆の内容の話をするのだから。
しかもJさんはクラリネットのメンバーの中で最高齢。気恥ずかしい思いもあるのかもしれない。でもちょっと誇らしそうに見えた。
こういっては失礼だが、なんだか可愛かった。

驚いたけど、以前のJさんと違って若々しいし、合奏が楽しそうだし、なにより話題が前向きで明るいのは一緒にいるこちらも嬉しいものだ。
軽い冗談を言い合うことすらなかったJさんが、メンバーと一緒に笑いふざけている様子を見ると、凄く幸せな気分にさせられる。私の気のせいかもしれないけど、パート全体が一層明るく前向きになったように思う。

一人が変わればみんなが変わる。以前は周りに変わってくれることを望んでばかりいたJさんが、自ら変わったことですんなり周りの雰囲気を変えた。すると、パート全体の音のまとまりも良くなるから不思議である。
こういうことがあると、この楽団に所属していて良かったなあ、と思わされる。一緒に音楽を作り上げるというのはこういうことも込みで、楽しいものだ。

今度の定期演奏会は2月。まあまあの難曲ぞろいである。
以前のJさんなら「なんでこんな難しい曲ばっかり」とボヤいていたに違いない。が、今は違う。難しいスケールも丁寧に一生懸命さらうJさんを見ていると、これはうかうかしていられないぞ、という気にさせられる。
負けられないように、練習しなくては。