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しっくりくる椅子

私が初めてバスクラリネットを吹き始めた時、師匠のK先生は
「自分に合った椅子を選びなさい。バスクラ奏者の中には自分用の椅子を持ち歩いている人もいますよ。バスクラは先ず椅子選びからです」
と仰った。
自分用の椅子なんて大袈裟な話だなあ、プロでもないのにそんな事適当でいいや、と先生の話を聞きつつハイハイと適当に返事していたのだったが、いざ吹き始めてみると先生の仰った意味が身に染みてよくわかった。

師匠くらいの巧者になると、椅子を選ばない。普通のパイプ椅子に座ってでもちゃんと上手く吹けてしまう。素人でもそういうバスクラ吹きは沢山居る。
だが私のような人間は、自分の体格に合った椅子に座らないと、苦しくて吹けない。マウスピースを咥えようとすると顎が上がってしまい、結果的に声帯を上手く開けられなくなってしまうのである。
声帯が開かないと、ちゃんとした音は出ない。出ても物凄く吹きづらい。
普通のクラリネットにはない苦労?である。

バスクラリネットはマウスピースと楽器本体を繋ぐ金属部分が湾曲している。本体の正確な長さはよくわからないが、多分一メートル以上ある。重さは約四キロといった所か。私のバスクラは日本の某有名メーカーのものなので、海外製よりは軽いと思う(このメーカーは普通のクラリネットも海外製より軽い。小柄な日本人向けなのか?)。
これをエンドピン(床に立てる楽器の一番下にセットする棒)一本と自分の腕力で支えるのだから、結構体力仕事である。この状態で声帯がすんなり開かない状態を自らの工夫で打破するのは、私のようなバスクラに不慣れな者には無理なのだ。
だから演奏する時は、余裕を持って腕を前に出して楽器をホールド出来る状態の椅子に座りたい。

師匠に言われたことを思い出し、その当時は椅子探しに一生懸命になった。家具屋の椅子コーナーでウロウロと高さを見比べる日々。どうも一般的なパイプ椅子では、チビの私には座面が低い。カフェにあるような椅子だと軽くて良いのだが、こちらはどうも座面が高すぎる。なかなか『これ!』というものがない。
バスクラ吹きには普通、舞台だと普通ピアノ椅子が供される。高さの調節が出来るから、物凄く有難いシロモノである。
が、この椅子は座面が超絶固いという欠点がある。オーケストラだと下手すると殆どの奏者がこれに座っているような光景も目にするけれど、皆さんのお尻は大丈夫なのか、と要らぬ心配をしてしまう。
慣れればなんていうことはないのかも知れないが、私はそれまで普通の椅子にしか座ったことがなかったから、長時間のピアノ椅子はきつかった。
それでもこの椅子があれば、吹けないことはない。だが吹奏楽で演奏する舞台は必ずしもピアノ椅子があるところばかりではない。下手すると外だってある。
ピアノ椅子が欲しい、といくら駄々をこねてもない所にはないのだ。だから自分でなんとかするしかない。

加えて、バスクラ奏者はそうでなくても荷物が多い。一番厄介なのはスタンドである。
私はハーキュレスという海外のメーカーのものを使っている。これが一番軽く、小さくなり、持ち運びし易い。
それでもかなりの重さと嵩がある。コイツを提げて、デカい四キロの棒を提げて、更に椅子を提げるなんて、私にはどう考えても無理である。演奏する前に疲れてしまう。
そこで私は考えた。
ないなら作ってしまおう。

と言っても不器用な性質なので、椅子なんて作れない。私が作ったのは『継ぎ椅子』である。
百均の工具箱に息子の読み終えたマンガ雑誌を乗せ、更にペタンコになってしまったクッションを置く。その上から小さめのひざ掛け毛布で全体をくるんで安全ピンで固定する。一か所に紐をループ状にして縫い付け、持ち運びの時指に引っ掛けられるようにした。
これでフワフワクッションの継ぎ椅子が完成した。

見た目は笑える外観だけれど、これが凄く重宝した。
ピアノ椅子を必死になって探さなくても、パイプ椅子にこれを置くだけでバッチリの高さになった。
これを使って沢山の舞台で演奏してきた。
この継ぎ椅子はちゃんと引っ越しの時も荷物に入れてきた。だから今度バスクラを吹くことがあったら、また使うつもりだ。
傍目には滑稽なものだと思うけれど、これが私には大切な『しっくりくる椅子』なのである。