見出し画像

「三文」は誰のための得か

今朝、夫が二週間ぶりに出勤するというのに寝坊した。褒められた話ではない。大慌てで飛び起き、高速で朝食の用意をしてなんとか間に合わせた。
自身はまだ出勤停止中だから、今日も一日ゆっくりである。夫も長らく在宅勤務だったので、つい心の緩みが出てしまったようだ。

夫はこういう時、絶対に怒ったりなじったりしない人なので助かる。いや、どちらかというと、
「いつもこの時間に起きるようにしろよ。間に合うんやから」
という忠告めいた言葉を頂くことが多く、その度に返答に窮する。
早起きをして時間に余裕のある家事をしたい、と思っている私の心の内を知ってか知らずか、夫は「それよりもゆっくり寝て、身体を大事にした方が良い」というようなことをいつも力説する。

これでも以前に比べれば、随分自分を大事にできるようになってきたとは思っているのだが、夫のこの言葉を聞くとまだまだなのかなあ、と思う。心の何処かに「早起きして、朝食をちゃんと作って、爽やかな笑顔で?夫を送り出さなきゃ」というベキネバ精神がまだ巣食っているようだ。
「ちゃんとしないと夫に申し訳ない」「家事をスッキリ片付けておきたい」と思ってしまう。そういう自分をこそ、素晴らしいと思ってしまう。
その考えは一見美しいが、その行動が「自分にとってどうなのか、自分はその行動をすることを快とするのか」をついついすっ飛ばす。
私の心にこびりついた、考え方の癖である。

勿論、早起きして粛々と家事をこなせば自分のために良いことは沢山ある。時間に余裕があれば心にもゆとりが生まれる。ゆとりは笑顔を生む。
身体がしんどくなければそれもいい。が、今は病み上がりでなかなか体調が安定しない。
しっかり寝た方が良いという夫の言葉も一理ある。

学生時代アルバイト先で、もう一人の女の子と一緒に倉庫で大量の検品作業を命じられたことがあった。相手の子が、
「今日はお腹が痛くて、仕事ができない」
とこぼすので、その子の分の作業をいくらかやってあげた。
結局その日彼女は早退し、その後作業を命じた社員が倉庫にやってきた。
「アイツは?」
と聞くので、
「帰りました。お腹痛いそうです」
私がそういうと社員はチッと舌打ちして、
「アイツ、面倒くさい仕事いつもお前に押し付けよるやろ。断れや。知らん、って言うてやれよ。時給おんなじやぞ」
と吐き捨てるように言った。
「でも、体調悪いなら無理にとは言えませんし」
と私が言うと、
「さっき、食堂で菓子食いながらべらべら喋っとったぞ。人が良いのも大概にしとけよ」
社員は呆れたようにブツブツ言いながら去っていった。

なんで私が怒られなくてはいけないのか、よくわからなかったが、要するにあの子は要領よく嫌な仕事を私に押し付けて、私は同情すらしつつそれを請け負っていたという訳だった。
この時のようなことは現在に至るまで、私の人生において何度もあった。その度に、親であれば「アホやねえ」と呆れられ、友人には「もうちょい上手くやりいや」と笑われた。陰で笑っていた人も多分少なからずいただろう。

ただ要領悪く、馬鹿正直に、自分でお役に立つのなら、という気持ちでやっていたのであるが、そういう自己評価が低い自分を「利用」されていたんだなあ、と今は思う。
でも、じゃあそういう子に私が今、
「何言うてんねん!自分かって、ちゃんと仕事しいや!」
と言い返せるようになったか、と言ったらそれは違っていて、同情こそしないけれど、多分あの時と同じように黙って自分にできるだけの仕事をするような気がする。今は倒れるまではやらなくなった、というだけだ。
良い恰好しいなのかもしれないし、そういう人に頼むより自分がやった方が早いし気持ち良い、という相手に対する諦めの気持ちもある。
ただ、良い恰好をするにせよ、自分でやった方が早いと思うからやるにせよ、そこには
「自分を大事にする」
ということがすっぽり抜け落ちている。

夫はそこを突いてくるのだ。
仕事が早く済むことより、世間に良い恰好を見せることより、
「『お前自身』を大切にしろ」
ということなのだと思う。
私が自分自身を大切にすれば、順調に家事をこなすことも出来、気分も明るく、自然と家庭にもいい影響がある。だからまわりまわって、夫のためになっていく。
夫が「ゆっくり寝ろ」というのは、家族への愛情故というよりも、
「お前はこういう感覚が欠落しているけれど、それが当たり前なんだぞ」
という助言でもあると思う。

朝の時間が短くなってしまうのはそれでもやはり残念だと思ってしまうが、家族の為にも自分のことを一番に考える「練習」をしていこう、と思っている、雨上がりの朝である。