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運が良かった

私の実家の近所に、Xさんというお宅がある。奥様はウチの母と同郷で、ほぼ同年代。若い頃は父の大学時代の恩師の隣の家に住んでいたというから、物凄い偶然もあったものだと思う。
子供はみんな私達とは少しずつ学年がズレていたが、仲良く遊ぶ近所友達だった。公園で出会えばかくれんぼや鬼ごっこをする仲間であった。
家族中でただ一人、Xさんのご主人だけは全くお見掛けしたことがなかった。会社員のお父さんを日中見かけないのは珍しいことではなかったから、私達子供はさして気にも留めていなかった。奥様が「夫は神経質で気難しいところがある」とこぼしておられた、というのを母伝に聞いたことがある程度だった。

Xさんは京都弁でやり取りできる、母の貴重な友人だったから、お互いに行き来がとても多かった。ミカンや柿を沢山貰えばおすそ分けした。増えすぎたから貰って、と言われてインコを貰ったこともある。
殺処分寸前で引き取った我が家の犬を見て、Xさんはすぐにその弟犬を引き取った。
万事がこんな具合だった。

母と奥様は子供が育つにつれ、お互いに思春期の子を持つ悩みを打ち明けたり、遠く離れた親のあれこれをこぼしあったりしていたようだった。
しばらくすると奥様は急にとても忙しくなった様子で、不在がちになった。母と話すことも極端に減った。車で出かけることが多くなり、助手席にはいつもご主人が座っていた。ご主人は濃いサングラスをかけていた。
しかし母が私達にXさん宅の話をすることはなかった。

そんなある日のこと、私は学校帰りに近所の公園で偶然、Xさんのご主人を見かけた。公園の階段を慎重に一つ上がっては、一つ降りる動作を繰り返している。サングラス姿で、手には白杖が握られていた。ドキリとした。
知っている近所のおじさんのそんな姿を見るのは初めてで、私はかなり衝撃を受けた。声をかけられず、黙って通り過ぎた。
帰ってすぐに母に告げると母は頷いて、
「緑内障やって。真面目で、仕事熱心で、全然休み取らへん人やから、これくらい大丈夫って、見え辛いのも我慢してはったみたい。どうしようもなくなって、お医者さん行ったら『もう通常の視力には戻れません。何でもっと早くに来なかったんですか』って言われはったらしい。奥さん、泣いてはった」
と寂しそうにポツンと言った。
言葉が見つからなかった。
そこからご主人は会社を退職し、盲学校に行き、鍼灸を学んで小さな鍼灸院を開業した。奥様は盲学校への送迎や、子供達の進学のことなどを一手に引き受けて、本当に大変だったろうと思う。

ウチの子供がまだ赤ん坊の頃、私はゆっくり身体のメンテナンスをすることが難しかったから、この鍼灸院には随分お世話になった。
子供時代を通じて、私がご主人と話をさせてもらったのは、この時が初めてだった。
怖い厳しいといったイメージしか持っていなかったご主人は、明るく陽気で冗談好きの、朗らかな鍼の先生になっておられた。
鍼灸の学校では、同じような境遇の友達が沢山出来たこと。実習でお互いに鍼の差し合いをするのはなかなかスリリングで、大の大人が大騒ぎすること。昔の肩書きが全然通用しないので、みんな平等になること。
そんな話を面白おかしくして下さった。

ある時、こんな話をして下さった。
何かの拍子に奥様を診てやろう、ということになり、冗談交じりに腕を取ったところ、脈が大変乱れていた。これは何か重篤な病気に違いない、と直感したご主人は
「今すぐに病院に行こう」
と渋る奥様を説得して、一緒に近所の大きな病院の救急外来に行った。
いつもは居ない循環器のドクターが、たまたまその日そこにおり、運よく診てもらえた。ドクターは奥様を診察すると
「すぐに入院して下さい。至急手術が必要です」
と告げた。
奥様はその週のうちに大きな手術をし、一命をとりとめた。
「自分が脈診いひんかったら、どうなってたか。鍼灸師やってて良かったと思うてね。本当に運が良かった」
そう言ってご主人は笑っていた。

その後もご主人は同じ場所で鍼灸院を続けておられる。
奥様も定期的に病院に行かねばならない他は、お元気だそうだ。
私が子供の頃より、お二人は仲睦まじいように見える。
ここまで壮絶ではないにせよ、自分も沢山の時間を生きてきた今、『運が良かった』というご主人の言葉がしみじみと思い出されることがある。
『禍福は糾える縄の如し』とはこういうことなのかと思っている。