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私の名刺です

新人のIさんが我が売り場にやってきて、もうすぐまる二ヶ月である。
まだ双葉マークは取れていないけれど(三ヶ月満了で取れる)、随分接客にも慣れてきて下さっているのは有難い。
常連さんや店の人の顔と名前も、ボツボツ一致することが増えてきた。
何より、本人がとても楽しそうに仕事しているのが喜ばしい。

が。
二ヶ月も顔を突き合わせていると、分かりたくないけれど分かってくることもある。
Iさん、これ以上ないくらいの『天然』なのだ。
多分、今まで私がお目にかかった天然さんのうちでも、最もハイレベルな辺りに属していると思う。
最初のうちは、『この人、一体どうやったら仕事を覚えてくれるのだろう』と指導係として頭を抱えることばかりだった。
しかし、最近は彼女のすっとこどっこいぶりに、何度も笑わせてもらっている。
能力が低いのではない。あくまでも超絶天然で、その程度が常軌を逸している、というだけである。
仕事に支障を来すレベルなのは、もうこちらが潔く諦めるしかない。その内少しずつ、大丈夫になって下さるはず・・・だと信じることにしている。

先日のことである。売り場に服飾メーカーA社の営業担当者がやってきた。
自社の商品がどのように陳列されているか、ライバル社の商品はどのように売られているか、を自分の目で見たり、値段設定を確認して今後の販売戦略の参考にする為である。
また、売り場担当者と親しくなり、最近の売れ筋を聞き取って、自社の別の商品を売り込むことが出来そうなら提案するのも、彼らの大事な仕事だ。
こういった営業担当者は、声をかける人間をちゃんと見分けている。
私達、レジ係の制服を着ている人間にはどうも、と挨拶くらいは愛想良くするが、本当に話したいのは売り場担当者なので、その制服を着ている人間を素早く探す。
Iさんは売り場担当希望なので、当然その制服を着ている。
この日もいつも通り、担当者はIさんに向かってグングン近寄ってきて、
「お世話になっております!A社の○○です。いつもありがとうございます!」
と満面の営業スマイルで頭を下げた。
Iさんは戸惑い気味に、
「あ、私まだ入社して二ヶ月で。新人なんです」
と答えた。

すると担当者はニコニコ顔を崩さず、
「そうですか!では、今後お見知りおきを。A社の○○と申します。よろしくお願いします」
と言って、彼女に自分の名刺を突き出して、頭を下げた。
Iさん、おどおどしながら受け取る。
やがて担当者は売り場の陳列をざっとチェックすると、
「ではまた来ますので、よろしくお願いします」
と再び丁寧に頭を下げて去っていった。

「Iさん、貰った名刺、Yさんに渡しておいて下さいね。服飾の引継ぎノートにでも貼っておいて下さい」
私は軽い気持ちでこう言った。
するとIさんは
「いえ、私に下さった名刺ですから、私が持っておきます」
と真面目腐って言う。虚を突かれた。
半分笑いながら、
「いやいや、だってYさんを訪ねて来たんですよ。今日はお休みやから、Iさんにもついでに挨拶しとこう、って感じで下さったんですから。置いといて下さい」
と頼んでみた。
しかしIさん、
「いえ、私にって下さったんですから」
と頑なに名刺を出そうとしない。
笑いつつ、ちょっと困ってしまった。

ここで、
「何言ってんの!新人のあんたを訪ねて来ている訳ないでしょ!さっさと名刺出しなさい!ここではそういうルールなの!」
と言って、無理やり出させてしまうのは簡単だ。
しかし彼女の思考回路は通常とちょっと違う。こういった『常識過ぎる常識』を押し付けても、きっと不満が残るだけだろう。
忙しく頭を働かせて、
「そう。じゃあYさんに訊いておくね」
と言って、私はその場を一旦収めた。

Iさんが帰った後、出勤してきたMさんに相談してみると、
「何それ!ダメです!なんで自分宛の名刺って思うかな!わけわかんない!!」
とお冠である。
私はまあまあ、とMさんをなだめ、
「多分捨ててはいないでしょうから、出してもらえるよう、明日穏便に頼んでみますね」
と言っておいた。

翌朝、Iさんに
「昨日の名刺ね、やっぱりYさんに渡して欲しいそうですよ。誰が売り場に来たのか確認しておかないと、後から話がおかしくなったりしたら困るそうです」
と努めて柔らかく言うと、
「そうなんですか。じゃあ置いておきます」
と案外すんなり出してくれた。
内心、ホッとした。

世の中、いろんな考え方の人がいる。
『常識』の範囲は人それぞれなんだなあ、としみじみ感じる。
自分のそれと違うからって、イチイチ目くじら立てていたら身が持たない。
ちょこちょこ大変なことはあるが、笑い飛ばせるくらいで良いんじゃないか、と思っている。
Iさんの研修はあと一カ月。
スリリングな面白い日々はまだまだ続きそうだ。