「私は最後、どのような人でありたいだろう」と考えることが、「私は今どうあるべきか」を決める

昔、友人が教えてくれたある言葉が好きで、ずっと覚えている。

人が死んだ後ってさ、生きてる時に何をしたか、どんな功績を残したかじゃなくて、その人がどんな人だったかをみんな話すんだ。「あの時、あいつは〇〇してくれた」とか「あいつは、〇〇なところあったよな。懐かしい」とか

私はある時から、死生観を持つようになり、その折りに友人が喋っていたからなおのこと覚えているのかもしれない。その友人は、思春期の真っ只中の多感な時期に父親を亡くし、母と一緒に生活している気が強い、やんちゃな青年だった。彼からは、そんな大変な経験をしたなんて全く感じられないくらいに、いつも明るくて陽気で、ちょっとキザなそんないいやつだった。

最後に残るのは、「私がどのような人間であったか」であり、「私が何をしてきたか」ではない。というのは、私にとって示唆深く、生きる上の指針になっているとさえ思える。事実、私が覚えている人たちも、「その人がどんな功績を持っていたか、何をしていた人か、どんなことをしてくれたのか」よりも、「こんな時にこういう風に言ってくれた」とか「こういう時に、こういう態度をとってくれた」とかの方がよく覚えている気がする。

もちろん、成し遂げてきたことが無に帰するわけではない。でも、何遂げてきたことはあくまで生前に価値を発揮するのであって、死後の弔いにはあまり役に立たないのだろうと気づいてから、自分が最後どのような終わりを迎えたいか、から少しだけ逆算して生きられるようになり、そこからグッと人生が楽になった実感を持っている。

最後がどうであれ、最後に向かってどのように時間を使っていくかは、ペットと暮らしていても常に意識するテーマである。私はすでに、犬を3匹ほど看取ってきており、現在飼っている猫もどれだけ長生きしても20年もおそらく生きないだろう、と高を括っている。事実としてそうであるし、受け入れなければいけない事項であるとも思っている。

終わりがある、と気づくことから、今の関係性を再構築できると思うし、終わりに向かって、今の一瞬をどのように過ごしていきたいかをデザインすること自体が、人生をより豊かにするのだと私は思っている。かつて飼っていた犬との暮らしの中で、その犬が亡くなった時に「どんな犬だったか」を思い出せなくなっていく自分もいるし、美しい記憶のまま残っているエピソードもある。おそらく、自分もそうやって一時的に誰かの記憶に残り、最後は自分の最も印象的な部分が誰かの記憶に残るのだろうと思うと、今この瞬間をどのように生きていくかを深く考えさせられる。

「私は最後、どのような人でありたいだろう」と考えることが、逆説的に今の私を決めるのだ。と、私は信じてやまない。

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