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コーチングをしている、なんて恐れ多くて言えない

「コーチング」という言葉、昨今はすごくよく聞くようになって、一般用語のようになったと感じる。私自身もコーチをつけて、コーチングを受けてみたこともあるし、その効果を自分の経験としても実感している。

しかし、最近の流れの中で少し違和感を感じることがある。それは、「コーチングをしている」というフレーズ。「ん?」と思う人はもしかしたらこの先は少し不快に思うかもしれない、あらかじめ謝っておくが、私はこの言葉が好きではない。今日はその話をしようと思う。

あくまで主語はクライアントではなかったのか。

私は別に資格を持っているコーチでも、自分自身がコーチングビジネスを行っているわけでもなんでもない。ただの素人の一般人である。

だけれども、体感値としてコーチングというのは必ず、「クライアント」が主語でないといけないと思っている。表現のあやと言えばそれまでだが、先の表現は、「コーチングをさせていただく」や「コーチをさせていただく」など、相手が主語であることを匂わせる表現の方が望ましいと思っているのだ。

「は?」と思う人もいるだろう。ごもっともである。ただの表現の問題だが、されど表現の問題なのだ。言葉が思考を作る、と私は信じており、その観点から考えると、「コーチングをする」というのは、クライアントにコーチが施しを与えているという錯覚を与えてしまうために、私は避けた方がよいと思っているのだ。

クライアントとコーチ、その2者以上の関係において、他方が他方を牽引したり、ドライブしたりするような状態であれば、コーチングが行われていると表現して良いと私は思っている。「コーチング」というのは動作ではないのだ。ただ、話を聞いて、わからなかった点や不明な点を聞くだけでもコーチングといっても良いと思うし、逆に問いばかり出して牽引が必要な人を牽引しないのはコーチングと言えないとも思う。

要するに、誰かに何かを施す、というニュアンスそのものがコーチングという営みと反するのではないか、と思っているのである。どんなに悩んでいる人がいても、相性や問いかけが間違っていればどんなに良いコーチだって、ミスをする。その時、クライアントはコーチングされた感覚は持てない。つまりコーチングはなかったといっても良いのだ。

コーチングにおいて、結局一番大事なのはクライアントだったはずだ。コーチ本人ではない。でも、コーチが主語になったような表現がたくさんあって、なんというか本質がぼやけてしまっているようなそんな感覚を持っている。

コーチングはするものではなく、最終的にコーチングになっている

かくいう私も、「山本さんにコーチングしてもらった」とか「山本さんがコーチングしてくれて」とかそのような言葉をいただくこともある。とてもありがたいが、大変恐れ多いとも思っている。私本人は、相手の話を真摯に聞いて、気になった点やその人の考えの根底にあるものをお聞きしたに過ぎないのだから。

そんなお言葉をいただくたびに、「自分がコーチングできているなんて錯覚してはいけないぞ、自分」と言い聞かせている。だって、「コーチングをしている」なんて思い始めたら、ただのティーチングや説教、禅問答になってしまうと思っているからだ。

コーチングは動作ではない、期待して得られる結果でもない。あの時間がコーチングであったと後から振り返るとわかることもあるし、あの問いが自分に気付きを与えてくれたと思うこともきっとあると思う。その問いや投げかけを再現度高く繰り出す方法論はたくさんあっても、その方法を積み重ねればコーチングが成し遂げられるわけではない。

あくまで主体はクライアントであって、私ではない。自分が主役だと思うのは烏滸がましい。クライアントの中に答えがなければ、少し方向性をこちらから提示することもあるし、クライアントの中に答えがあれば、後押しすることだってある。ただし、クライアントが望むならだ。それ以上は何もない。

「コーチングをする」という表現を今後も私は避けていくだろう。それは、相手に対して真摯でいるために。クライアントのことをちゃんと考えられる自分を保つために。そして、コーチングという楽しい営みをいつまでも自分らしく続けていくために。

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