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本と読書について

最近、どうも本を読む気にならない。以前は毎月数十冊単位で本を読んでいたのだが、最近ではめっきり本を読まなくなってしまった。

でも、インプットが減ってしまったわけでは全然ないのだ。情報源としての本(電子書籍含む)の重要度が年々、自分の中で下がってきていて、それ以外の方法の重要度が相対的に上がってきている、というただそれだけなのだ。

しかし、本は好きで読書も好きな私にとって「本をどうも読む気にならない」というこの矛盾は放っては置けない事態なのである。今こそ、読書というものが、なんのために、どうして好きだったのかを明らかにして、本と読書のあり方を自分自身で問い直す必要性を強く感じる。

ちょっと長いが、私と本との出会いと、現在に至るまでのストーリーを語ってみようと思う。


読み聞かせから、本が人と人とをつないでくれた

私にとっての読書は、読み聞かせから始まった。一番最初に覚えているのは、小学校2年生の時。担任の先生が、終わりの会で本の読み聞かせをしてくれていたことから私の本好きは始まる。小学2年生といえば、私の学校では初めて本を図書館から借りれるようになる学年で、きっと先生は「児童がもっと本のことを好きになるように」という思いで読み聞かせをしてくれたのだろう。本当に私は先生に感謝している。
(余談だが、この先生は6年生の時も私の担任をしてくれており、その時には歴史の面白さを強く私に伝えてくれた先生でもある。感謝してもしきれない)

本というものは私にとって、自分の知らない何かを知ったり、自分を空想の世界に誘ってくれる存在であった。特に、私は後者の方が好きで、海外の児童向け文学をいくつか読んでは、ぐっときて、ぼんやりしていた記憶さえある。知的探究心というよりも、想像力の方が私の根底にあるのは今も変わらない。

中学生の時も、高校生の時も本は私の身近にあって、いつも私を支えてくれたように思う。中学生のある時は、東野圭吾がとても流行り、友達との会話でよく彼の本の話をしたものだ。当時通っていた塾の先生は、英米文学が専攻の人で、私にシェイクスピアの面白さ(特にマクベス)を教えてくれたり、卒業祝いに『百年の孤独』という名著をくれたりした。

高校生の時は、本というきっかけで国語の先生が非常に良くしてくれたし、興味の幅が近代文学や文語調の書籍に移っていった。双葉亭とか福沢とかその辺りのちょうど文学が好きだった。ある先生とは、森鴎外ですごく仲良くなった記憶がある。先生は、生徒が興味を持ってくれたのが嬉しかったんだろうなと今ならわかる。米文学だとサリンジャーが好きだったし、この頃にジッドやフランクルと出会う。狭き門、面白かったなぁ。

古典も相変わらず好きだし、その影響で今でも京都に行ったら源氏物語ミュージアムにいきたいと思ってしまう。枕草子が一番好きで、好きが高じてこうやってエッセイを書くようにさえなっている。

こうやって考えてみると、私にとって本とはいつも私と誰かを繋いでくれる架け橋であって、あまり知的な情報収集源ではなかったのだ。得た情報を紡いで、誰かと会話して、議論して、面白がって、また興味を広げたり、誰かと仲良くなるきっかけであった。その本の存在が今、私の中で揺らいでいる、ということなのである。

専門性を支えてくれる書籍が、心の安心材料に

一方で、大学に入ると本との関わり方が一気に変わる。授業料免除を受けていたり、選抜コースにいたり、さまざまな活動をしていた私は、『勉強していい実績を残すか or 大学を出ていくか』くらい極端な生活をしていた。毎日、10冊近い本を背負って自転車に乗り、坂道を登り下りしながら大学に通っては、図書館にこもって眠い目をこすりながら課題をたくさんこなした記憶がある。本を持っていることが自分の中での安心感を醸成していたと思う。自分を保つ一つのツールにすり替わっていた。

社会に出てからもそれは変わらなかった。私は、大学の時の専攻をそのまま仕事にし、エンジニアとしてもキャリアを積んでいく中で、より本というものは「専門性の高い知識を学ぶためのもの」になっていった。面接や面談でも「〇〇という本は読んで勉強されていますか?」と聞かれることさえあったし、ある本で出てくるような理論的な理解を聞かれることもしばしばあった。本を読むということが安心材料である、その認識がずっと続いたのだ。

本や読書に対する諦めと嫌気がさすようになっていく

そこからずっと、専門性の高い書籍や文献ばかりを読むようになった。でも次第に私の中でそれらの本に対して胃もたれを感じるようになってきたのも事実である。そういう本を読むことは大事であるし、否定もしないが、何せ効率が良くないし、エネルギーも時間も大量に奪われていくし、一度読んでも頭には全然入ってこない。時間ばかりかかって、一向に進捗が見えないそんな作業に嫌気がさすようになってきた。

ビジネス書や文学、思想関連の本も相変わらず好きなのだが、徐々にこれらの本にも嫌気がさすようになってきた。自分がお金を稼ぐようになってから大量に本を買って、大量に本を読むようになったからこそ、「ここまでお金払ってこの本から得られる知識これだけかよ」と呆れる書籍にも大量に出会い、投下した時間を残念に思ってしまうことも増えたのだ。あまり、コスパ・タイパと言いたくないが、単純に時間とお金を泥棒された気分になることさえあった。ふざけるな、私はお前の考えを聞きたいわけじゃない、と。

徐々に、そこからビジネス書や思想本、文学などは音声で大量に、高速に、流れるように摂取するように変化していった。大体の書籍は3時間程度の音声になっていることが多く、私は3倍速で聴くから、実質1時間で一冊聞いたことになる。これくらいなら私でも納得できる投資対効果である、と思えるようになっていった。どうせたくさん読むし、読みたい本、気になる本もあるのだから、一度の時間や運動しながらなど単位時間の中でどれくらい効率を上げられるかを考えた方が良いなととても強くなっていった。

読書が好きだったはずなのに、いつの間にか読書に気乗りしないようになっていった

でも、そこからだ。私の中で、何度も読み返さないと理解できないような専門性の高い書籍以外、本として読む理由がなくなってしまったのだ。専門書は多読できないから、誰かのおすすめを買うことになるのだが、やっぱりどうも胃もたれしてしまう。読書という作業が、毎回ステーキを食べる食事のように感じられるようになっていった。だから、好きなのに、食べる気分にならない。

私はとても困っている。もっと、野菜サラダとかフルーツみたいなライトだけど、自分のためになる書籍をもっと気楽に読みたいのに、本を読む動作はどうしても効率が悪いと感じてしまう。きっと、まだ私が知らない領域では、「音声じゃなくて本の方がいいんだよ」という領域があるんだろうが、絵本以外に私はまだそれを見出せていない。(絵本を読む機会はさほどない)

専門性が悪いわけじゃない、難しい本も悪いわけじゃない、ライトな自己啓発本も文学もぜーんぶ悪くない。でも、最適化すると、どっちかに偏ってしまって、読書の楽しみが半減してしまったことがただただ残念なのだ。私は読書が好きでありたい、でも効率との天秤でモヤっとしている。今日はそんな話。

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