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西洋美術雑感 40:ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「オーヴェールの教会」

ゴッホは僕にとって特別な画家である。かつて上野のゴッホ展で「刈り取る人のいる麦畑」という絵を見て、それによって僕は西洋美術に開眼したからだ。したがって彼は僕の好きな画家というだけではなく、いわゆる人生の恩人であった。僕に、膨大な西洋美術のめくるめく魅力を教えてくれた人、ということになるからである。そんな大切な存在であり、その後自分は、ゴッホに関するエッセイ評論まで書き上げ、そこに、彼の芸術について自分が考えたことをすべて書いた。
 
その本に書いたことの骨子は、ゴッホという人間の芸術への愛に貫かれた激情と、ゴッホが塗った画布という絵画芸術は、実は直接の関係がなく、彼が最後に残した画布には感情とか情熱とかいう人間的なものはかけらもなく、その代わりに、どうしようもなく純粋な色彩とまばゆい光があるばかりだった、という事であった。ただ、これはゴッホが、というより、僕自身のロマンチシズムであり、それを彼の芸術に投影させて語ったのがその本だった。
 
そういうわけなので、その本では、彼の画布の中でも、ことさら「静的」な絵を取り上げて論じることが多く、特に、彼が死ぬ前に数か月をすごしたフランスのオーヴェール・シュール・オワーズで描かれた、特段の主題や感情を持たない、地味な色彩に溢れた画布を、僕もことさらに選んだのであった。
 
しかし、このオーヴェールで描かれた彼の画布で、自分がおそらくもっとも長きにわたって強い印象を受けたのは、この「オーヴェールの教会」という絵だったのである。
 
本の中では、この絵にはあまり触れず、むしろ、この絵がオーヴェールでの数少ない傑作のひとつであるという世間の通説を信じるな、と書いたぐらいだ。本を書いていたときは夢中だったので、それでいいのだが、この絵の深い印象は、おそらく、僕が中学生か、あるいは小学生のころの思い出に始まっている。そのころ親に買ってもらった図鑑の中の西洋絵画の項の見開きに、このオーヴェールの教会が色刷りで載っていたのである。絵画なんかなにも分からない子供の自分でさえ、この絵の印象は強く、昔のことではっきりは思い出せないが、ある種の漠然とした緊張感のようなものを感じた。
 
いまこの絵を見ても、それは歴然としていると思う。
 
この教会の形状はなぜにこんなに歪んでいるのか。まるで両肩が溶けかかり、崩れ落ちようとしているようだ。でも、しかし、上部の鐘楼の部分が前傾しながらも、まるで腕を突っ張った老人のように、全力で倒れまいと骨組を支えている。前景は初夏の太陽の光を受けたおだやかな色の草木と道であるが、それに対して、教会の背景のこの深い青色をした空はどうだろう。青空にしては、青すぎるし、天上から何かが押し寄せて来るような畳みかける不気味な筆触が、なにか極度の危険の到来を表しているように見えてしまう。そして、道を歩く女は故郷のオランダの衣装をつけ、なんだか引き寄せられるように教会へ向かって歩いて行く。すぐそこに迫った錯乱と狂気の不安のただなかに、そのまま入って行ってしまいそうな姿勢の不安定さを感じる。
 
とまあ、まだ子供のころは以上のような言葉になるはずはないのだが、漠然と感じていたことは、今と同じだったと思う。本を書いたときの僕は、これを、ゴッホの実生活の苦悩と同一視し、その不安に満ちた現実を退け、そこから解脱した彼の魂が生み出した光り輝く平和な画布の方を、傑作として選んだのであった。たとえば、それは彼が死ぬ直前に描いた「ドービニーの庭」という穏やかな画布の方だった。
 
しかしながら、いま一度、そういう自分のロマンチシズムを度外視して、このオーヴェールの教会を見ると、ずっと感じていた、病的な極度の精神的危機のようなものを今でも感じる。これはただ事ではない。なにかよほどの事が起こっている、という風にどうしても思う。
 
ちなみに、ゴッホ亡きあと、その後の画家たちが衝撃を受け、彼らに強い動かしようのない影響を与えたのは、僕が本で書いた恍惚とした光ではなく、それと対になる、この「精神的危機」の方だった。彼のこの絵が描かれたのは1890年。ほどなくして20世紀になり、そこで人々を待っていたのは、戦争と破壊と破綻に満ちた、不安にさいなまれる時代だったのである。ゴッホのこの絵は、その人間存在の本質的な不安をまさに表していたわけで、実存的問題を抱える時代に生きる人たちの心を打ったのであった。


Vincent van Gogh, "The Church at Auvers", 1890, Oil on canvas,  Musée d'Orsay, Paris, France

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