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46歳からの読書【漂流者は何をたべていたか】

おじさん構文なるモノがある。先日、ラーメンブロガーみたいな人が炎上した際の釈明文が、おじさん構文でキモいと話題になった。僕も読んだけど、何とも知性を微塵も感じさせないモノだった。そんな中、あれは何てことはない出来の悪い昭和軽薄体ではないかとの指摘が上がった。
なるほどそんな気もする。ウンウンと僕も分かった気になって頷いていたの、だけどふと思い返してみれば、僕が読んだ椎名誠と言えば、『岳物語』と『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』の2冊だったから、そこまで昭和軽薄体ではないように思う。
僕はそれほど昭和軽薄体なるモノには接してこなかったのだ。
という訳で、本屋をうろついていた時に、椎名誠の新刊を見つけたので手に取ってみた。

漂流者は何を食べていたか 椎名誠

漂流記と言えば15少年漂流記やロビンソン・クルーソーとかが思い出されるがあれはフィクションであって、世には多くの実話に基づく漂流記がありそれを読み解いて、何を食べていたかが書かれている。
なるほど近代においても非常に多くの漂流者がいて生き延びている。生き延びるからには何かしらの物を食べている。何をどうやって食べていたかは確かに興味深い。海が好きな訳ではないので自分が漂流することはないとは思うが、いざと言う時には役に立つはずだ。
読んでいくと、さすがは本の雑誌の編集長だ。面白いとかではなくただただ紹介される漂流記そのものが読みたくなる。ああコン・ティキ号漂流記ってこんなに面白そうなんだ。数々の漂流記を読み漁る漂流記マニアとは何とも魅惑的な存在なのだろうか。
漂流記の魅力はなぜ漂流に至ったのか、どう生き延びるのか、孤独や極限状態の人間性とか、そういうところだと思うのだが、本書は食にだけを特化していて、そこを大いに肩透かししてる。

肝心の食だが残念ながらそこまで魅力的ではない。漂流の状況にもよるが多くの場合、海から得られるのはシイラとトビウオ、ウミガメ、そして海鳥。それに火が使えるか使えないかの違いしかない。何せ多くの場合は徒手空拳に近い状態であるでの簡単に取れるものが中心になってくる。とにかくシイラがよく取れる。どうも漂流物に住む生態らしく向こうから寄り添ってくるので簡単に取れるらしい。

また漂流には2つあり遭難としての望まない漂流と、実験漂流の2つである。実験漂流は準備が万端なので基本的には食は普通である。中にはカレーが美味しかったという程度の物もある。なんとも物足りない。しかもだ実験漂流と言っても得られる知見も多くなさそうだ。海で漂流したいというだけの実験と言う名のレジャー感がヒシヒシと伝わってくる。なんなら何故俺を誘わんのだと筆者からの恨み節が聞こえてきそうだ。

漂流者はそもそもが自由なんだ。もちろん近代以降だろうが、漂流者になり漂流記を記そうとする人は初めから自由なんだと思わされる。海は過酷だが自由である。
思い返せば本書で紹介された最初の漂流記から、自由である。
家を売りヨット旅にでる家族が遭難し漂流する話である。準備を重ね旅立つが旅立ちすぐに立ち寄った島で、16歳の長女が島の若者との結婚の為に離脱。それでも旅を続ける家族。
あらゆる意味で自由である。
社会と常識に縛られて生きている自分が嫌になる。

ただ最後に多くの漂流記の裏には、漂流記に残らない漂流があることだけを書き添えておく。きっとそっちの方が多い。海の自由は死と直結している。
僕はまだしばらく縛られおこうと思う。

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