物を買わずに豊かに生きる4
最近YouTubeで車の動画をよく見る。私の好きだった元中日の山本昌さんがスーパーカーを紹介する動画を何個か見た。考えは二つあった。一つは、スーパーカーというのは、軽自動車と移動する手段としては何ら変わりなく、むしろ不便である。小さい道も入れないし、段差も車高の低さで気を遣わないといけない。スーパーカーを持つということは、盗まれないように気を遣わないといけない。もう一つの考えは、工芸品的な楽しみ方だ。こだわり抜いた曲線美、モンスターのようなエンジン、全てが美しい。所有するということはさておき、見ているだけでうっとりするようなスーパーカーの美麗さに、惚れ惚れする。
話はガラッと変わる。私には愛する子供が二人いる。彼らを見ていると奇跡としか思えない。つい数年前まで影も形もなかった。彼らが生きている奇跡にただただ感嘆する。この世に生を受けて、生き生きと生きている我が子を見て、ただただ喜びを感じる。
人は死ぬと生命の根源、ニライカナイに還っていく。そして我が子も、ニライカナイからやってきた。私の母は、ニライカナイへと旅立って1年余り。ニライカナイへと旅立つと、今の現世には影も形もない。だからこそ、ニライカナイから来た我が子のことを余計に奇跡だと思えるのだ。
私が言うニライカナイとは、比喩表現でしかない。人は死ぬといなくなる。そして、なにもないところから誕生する。そのことを言っているだけだ。ただ、なにかそれだけには思えない。なにか生命の泉のようなものがあって、誕生する時にそこから来て、死ぬとそこに戻っていく。
諸行無常。この世は、諸行無常がデフォルト。そう考えると、苦悩も幾分か楽になる。「無常」。常なるものは無く、日々日々、時々刻々と状況は変化する。自分も他人も、さまざまな関係性も、変化していく。あらゆるものが、変化していく。この当たり前のことを実感として掴むと、なにか起きたときに、割と冷静に対処できる。安定への執着があると、変化の兆しが訪れた時に、怒りや、さまざまな感情的な思いが交錯して、上手く対応できないときがある。
根無し草という言葉が好きだ。自我(エゴ)という木を育てて、根を深くすればするほど、さまざまな苦悩がより増幅してやってくる。木が大きければ大きいほど、苦悩もまた大きくなる。根無し草でいい。好きなところに飛んでいって、軽く軽く生きていきたい。意味の重さに動きが鈍くなるのではなく、風に舞ってどこへでもいける。
万物は流転していくなかで、多くを持たず、軽やかにスルスルっと生き抜いていく狡知。身軽なほどに、生きるのは楽だ。
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