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徒然日記2020.10.03

今日は朝起きてから妻たちは近所のコミュニティーで春に引っ越した友人が遊びに来るということで公園に出かけていって、私は前日の妻との打ち合わせ通りに図書館へと向かった。図書館では昨晩の寝不足のせいで全然頭が働かない。図書館の庭を歩いたり、コーヒーを飲んだりしてなんとか目を覚まそうと努力しているのだが、なかなか今日の頭の鈍り方は半端ではない。+Mさんの日記かツイートでバッハの無伴奏チェロ組曲を聴くと、そのような状態でも整ってくるというのを見た。Amazonミュージックで無伴奏チェロ組曲を何曲かコンピレーションして聞いていたら不思議と意識が整ってきた。もう一歩というところなので、次はバッハの平均律クラヴィーア曲集もコンピレーションで集めて聴きまくっていたら、かなり整ってきた。いざ読書という段になって、整ってきているのに何か足らない。若松英輔さんの「読むと書く」論ではないが、書いてみようというので、今の思いを書いていると、不思議と整ってきた。書くということは、「今ここ」にでる最適の方法なのかもしれない。昨晩、「過剰性=欠如」の論に少し触れたが、円環の欠如のない状態だと、モチベーションがない。やはり欠如を喚起することによって、回転し始める。「今ここ」というものに出ていくと読書はスムーズだ。この図書館に来て、あまり自分が本を読んだりすることに気分が乗らない状態を長時間体感したら、学生時代の勉強に乗らない自分とシンクロした。あの時の自分は、やはり乗らないと全くやる気が出ず、困っていたものだ。

昼食は図書館の喫茶店でカレーを食した。ホテルカレーのような感じでルーが凝っていて美味しかった。昼食後は満腹になりすぎてまた眠くなる。敷地内を歩いたり、缶コーヒーを飲んだりして整えていった。食後もバッハの平均律と無伴奏にお世話になった。かなり整ってくる。

河合俊雄著『心理療法家がみた日本のこころ』(ミネルヴァ書房)という本を読んでいる。言わずと知れた河合隼雄の息子さんで現代のユング心理学の権威でもある。ユング関連の本を多く世に出しておられる。さて「象徴」についてかなり示唆に富んだ記述があったので、ここに書きたい。昔は蛇というと死と再生を表していたり、カラスというと高度な社会性とゴミをあさるなど連想するものがある。現代はこのようなある理解できないXという事象に対して象徴的に解釈する力が弱まっているという。だから人生の壁にぶつかって物語れないときに、象徴的に解釈することができない。だから鬱屈といて無意識に溜まったドロドロとしたものが、一気に表層に現れてくることがある。昔は象徴力とも言える力が高いので、それらを物語や神話として腑に落とすことができた。この腑に落とすというのは、象徴性の最たるものだと理解した。象徴性を見出すことによって腑に落とす。生きていて理解できず腑に落ちない事象に出会った時に、象徴的な物語を通して腑に落とす。柳田國男の「遠野物語」をご存知だろうか?そこには豊かな象徴の物語が多く記載されている。理解できない事象、辛い出来事、不思議な出来事を見事に象徴的な物語として多く語られている。思えばコンステレーションや共時性、シンクロニシティーも科学的には連関のない出来事を象徴的に意味を見出して繋がりを表す最たるものといえよう。夜空の星が一つ一つが点であるのに、点と点をつなげて象徴的なイメージを見出した星座はユング心理学の用語であるコンステレーション、布置という言葉と同義であるのは興味深い。現代は物語にくい、象徴的な意味を見出しにくい時代とも言える。理解し難い出来事に出会った時に、「象徴力」が試されることだろう。

帰宅したら、妻たちはかなりお疲れのご様子で、子どもたちをお風呂に入れてから、夕食は王将の餃子を買いに行って、自宅で王将タイム。ノンアルコールビールで流し込んだ。妻は少し気分的に乗り越えた様子で、ちょっと安心した。妻が子どもたちを思い、悩んでいるのは「有情」、情が深いからだということに気づいた。子どもを愛するが故に悩みも深い。もっと妻に寄り添って、思いを共有せねばと自戒した。

今日も一日が終わった。図書館での有意義な思索の時間が取れて良かった。帰宅して家事育児が終わって寝かしつけた後もたっぷりと読書タイムを取れている。文化の秋に読書をしっかりと楽しむことが出来ておりよかった。当たり前ではない明日を迎えるために今日はこの辺で寝ようと思う。母の親友が余命1週間と言われてからまだ生き延びておられる。彼女の生きる力に精一杯の敬意と畏敬の念を表して日記をおわる。

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