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ずっと聞こえていただろう(罪①)【feat.ななコ】


 耳管開放症というものがある。
 嚥下時、耳と鼻を繋ぐ管の開閉の具合によって起こるもので、大方「急激な体重の減少」や「強い鼻のかみ過ぎ」に起因する。イチ病名ではあるものの、メニエール病のように末尾に「病」がつく訳ではなく、症状として「たまに自分の呼吸音が内側から聞こえる」だけのもの。
 軽い言い方をするのは、私自身が患っているから。毎週検査機器の作動を確認するのだが、週明けの検査担当が私のため、その都度「今日も解放してんなー」と自らの波形を見る。
 外耳を伝って外から聞こえるはずの音が内側から聞こえる。
 この担当にならなかったら、そんな特性を持っているなんて知らずにいた。




 でかい体を押し込めるようにして受付に立つ。見るからに窮屈そうだ。元々いた受付のお姉さんは気にも止めずに「お疲れ様です」とこちらに笑顔を向けてくれる。ななコはお姉さんの手元を見たままだ。



 これは完全に私が悪い。
 クセとか習性とか趣向とか本能とか、分類の名称は何でもいいんだけど、例えばホラ、キレイなお姉さんとすれ違ったら目で追うでしょ。このこと自体、全員が全員という訳ではないというのは後々知ったことだけれど、もうとにかく。
 完全に私が悪い。それは認める。
 認めた上で、「いや、でも見るでしょ」とも思う。
 開けてなかった最後の一つ、ななコが受け持つクラスの時間帯、交代でラリーをしている時、一つ飛ばして向こうのコートで打っていたのは、一人は以前i 野コーチのクラスにも来た男性(めっちゃ上手かった。玉ちゃん曰く「会員さんだと思う……」)そしてネットを挟んで反対側。


 目を丸くする。
 うさぎ。
 めっちゃうまいじゃん。


 本当においしいと感じた時「おいしい」としか出てこないように、本物に相対した時、語彙力は一旦キレイに失われる。
 いや、ななコの受け持つクラスより前に、初めて中上級の見学に行った時、似たような背格好の人はいたよ。でも実際打ってみて別人だと思ってた。まさか、本人だった。
 とんっでもない。
 とんっでもないやりとりが向こうのコートで繰り広げられていた。
 本物のラリーは、何っていうか全然違う。やってること同じでも見えるものが全然違う。ボールに一つの命をふき込む。無機物がきちんと意思をもつ。再現度が高く、(会話であっても)キャッチボールは同じ高さの者同士でないとできないように、非言語のやり取りも同一。「それ」はボールという媒体を通じて可視化されたやり取りだった。相応でなければキャッチもままならない。
 動画である。美術館はあくまで静止画の集まり。私が今目にしている美しいものは、オンタイムで躍動し続ける。その圧倒的純度。余分なものが一切なく、ただただ美しい。

 細身の男性は、小柄だけれど鬼に限りなく近い弾道を描く。ただでさえ面をほとんど伏せた状態でするインパクト。そこにギリッギリまで引き込んだ分だけ加えられた回転量。そうしてバウンドさせるのはリスクを負わないサービスラインとベースラインの間。淡々と。何より静かだ。
 うさぎは太めの芯がまるでブレない。最も力の乗った状態で向かってくる打球に動じない。全て腹筋で受け止める。弾き返すのではない。一撃の力を秘めながら、きちんとキャッチしている。敬意。互いにマナーが見える。伸びた背筋。だからその姿勢は正しい。思い返してみれば、私自身うさぎがあくせく動くのを見たことがない。周りが上手いのも関係していると思うが、無駄な動きが一切ない。でも確実に「そこに」いる。そしてその元に集ったボールは、増し増しの回転量で返ってくる。

 圧縮。テニスはコートにさえ入ればやりとりが続く。だから力なく当てただけのボールも、ゴリゴリに回転をかけて無理やりコートに収めたボールも、そのラインで測れば等しい。けれどもそれは「めちゃくちゃ残業していたのが、効率よくできるようになってきて、定時で上がれるようになる」のと「始めから定時で上がる」のと一緒で、その内実には雲泥の差が出る。
 憧れ、である。
 本来おさまるはずのない力を規定の枠内に収める。打ち出しの面の角度、打点、振り抜き、全ての条件が揃って生まれる打球。それが一つとして同じはずのない返球相手に続く。生み出し続ける。紛れもない職人技だった。


 うっまあ。


 この日の受講料の半分は拝観料としてこっちに収めてくれと思った。
 失礼だと分かっていて目を取られる。
 同じコートで打っている人たちが下手な訳ではない。けれどじゃあ魅力的かと言えばそうでもない。開始30分。早々に帰りたいと思っていた。
 通常同じコートにいる人たちはまずは初見に注目する。すなわちこの日のレギュラーは、唯一の初見、「別のコートを見ている私」を見ることになる。それは遠回しにも直接的にも「その人」の否定だった。その人たちの否定だった。






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