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本当の鬼【feat.男子トーナメント級】





 鬼が金棒を持って立つ。ネットを挟んで向こう側。ただの力比べだったら到底敵わないことでも、技術、調整、ルールという外枠、定められた枠組みの中でなら戦える。テニスにはコートがあり、一番外側にある白帯を超えてバウンドしたボールは、どんな力を持とうと無効。
 同じ枠組みの中で戦う。ことスポーツにおいて良く耳にする心技体は、この競技にとっても心の部分の影響する割合が大きい段階と、その先の段階がある。最も高いハードルである心は、越えた人間とそうでない人間を明確に分かつ。ともすれば対象に対する愛情、自我、欲求が、自分という枠組みを越えて暴走を始めようとした時、ニュートラルに戻せるかそうでないか。ここに必要になるのはただの理性じゃない。「頑張る」という強い意思じゃない。必要なのはニュートラルに戻るための足掛かり、きっかけ。それをいくつか持っていること。
 そうして何をかきっかけに冷静さを取り戻した時、手元に残るもの。自分の本来の形を思い出せるかは、比較的少ない点数でのやり取りで終始するこの競技に大きく作用する。修正が間に合わず、崩れたまま終わることも少なくない。

「今日は三人です」
 普段受講生が二人しかいない時間帯のクラス。突然現れたその人は、その後コーチが「ボールとの距離感、掴む感じを意識して」とテンプレをかざすのなんかお構いなしで、球出し練習からフルスロットルで打ち込みを始めた。
 荒い。気遣い愛想丁寧調整本番で使えるか否かその他もろもろ、私がこの競技を愛するが故遣う気持ちカケラ一つも見当たらない。
 球出しが終わって、ネットを挟んでベースラインで打ち合う。テニスの最も基本的なやり取り、ラリー。その人とするのはラリーを模した別のものだった。
 全力投球。
 プレイヤー同士は基本、無意識の内に相手の力量に合わせたラリーをしようとする。私の場合、見てくれが華奢な分、男性は皆、まずやさしいボールを打ち出してくれる。だから最初からガンガン打ってくる人は、過去に一度でも私と打ったことのある人。今まで一度も打ったことのない人が最初から全力投球で来るのは初めてだった。それもただの全力投球じゃない。私がロブでの打ち合いを好むと気づくと、ダブルスの形式練習時、わざと弾道を上げてきた。

「速水さん、前!」
 前衛に入った、普段温厚なコーチが声を上げる。尖る神経。
 必要な情報を集めようと刮目する全器官。打ち方、ラケットの面にボールが触れている時間の長さ、ボールの回転量、打ち上げた角度、予測して弾き出した着弾点。全私がわめく。
 ダメだ。絶対ダメだ。
 このボールは絶対にバウンドさせてはいけない。
 分かっているのに一歩が出ない。たった一歩、ためらったがために、バウンドしたボールに対応するために五歩下がる。途端、時間軸が歪む。一秒が一秒でなくなる。まるで夢かと見紛うかのような、引き伸ばされた一秒。
 一球に込められた回転量なんて、ボールの字を追わなくても分かる。圧縮されたもの。重いデータほど、ロードに時間がかかるように、重いものほど時間をかけて、重いものほどゆっくり、
 ゆっくり進む。

 重たいよね。分かる。だってインパクトの瞬間、見てたもん。
 随分長いことラケットの面に触れていたね。周囲の風を巻き込んで、目一杯腹に蓄えたエネルギー。それを早く吐き出したがってる。

 着弾。凄まじい力を放出したボールは、一気に私の頭上まで跳ね上がると、伸ばしたラケットの面を弾いて、わずか三メートル先に落下した。着弾時生じた摩擦と、完全なフラットに回転力を失ったボールは、その後慣性の法則に従って動きを止める。これが、今の私だった。
 取り残された拍動。
 もしかしたら最も怖いのは死ぬ間際なのであって、実際死んでしまえば何のことないのかもしれない。やけに静かな脳みそにぼんやり浮かぶ思い。


 やっと落ち着けると思ったのに。


 ただの全力投球、ただの自己満ナルシスト相手だったらどうでもよかった。他で勝手にやってくれ、と一線引いて突き放すことができた。想定外は球種を揃えてきたこと。高い弾道。まれにラリーでコミュニケーションが取れる人がいる。上がらない息、土台をきちんと積み上げた相手は、行動にこそ雄弁。


 テニスが好きだった。ただ楽しくラリーがしたかった。放課後のおしゃべりみたいな、ロブで打ち合うのが何より楽しかった。
 テニスが好きだった。大人になって初めて見学に行ったクラスで、男性に混じってただ一人、長い髪をなびかせて戦う女性を見つけた。その人みたいになりたくて、再び練習をするようになった。
 テニスが好きだった。勝てない。力では敵わない。しなる力を強化するべく、背筋を中心とした筋トレを始めた。休日が休日でなくなった。
 テニスが好きだった。同じところで足掻き続けても変わらない。藁にもすがる思いで少人数のクラスに受講時間をかえた。基礎の基礎から学び直したかった。そうして

 ようやく穏やかな気持ちでテニスが好きだと言えるようになれた所だった。力の入れ方、コンプレックスの解消。
 一つ一つ土台を積み上げることによって、調子の波がさざなみに変わる。感情に依らなくなる。まっすぐ、本当に向き合いたいものと、広いコートと向き合えるようになる。これで「年齢を重ねてもできるテニス」「一目惚れした長髪の女性の前に立てるテニス」を手に入れて、あとは淡々と学んだことに忠実に、豊かな時間を過ごすつもりだったのに。やっと落ち着けると思ったのに。ああ


 火ぃ、つけんじゃねぇよ。
 仕事じゃないの。義務じゃないの。休日のストレス発散、楽しみのために通ってるの。ただ好きなものを愛でるために、毎週ここに。

 帰りに一度だけその人と目があった。す、と流れる視線。
「よかったっす」
 その目はまっすぐコーチに向かう。
「来てよかった。めっちゃ楽しかった。さすがっすね」
 嫉妬は、譲れない何かに反応して着火するという。
 譲れないもの。私の一角をなすもの。流れた視線。
 歯牙にも掛けない。私のテニスは、その視界に入るにも値しない。
 土台が違う。息一つ上がってない。普段「無尽蔵」と引かれる身体が、深いところで震えていた。

 まだ早い。
 自分の愛情を過信していた。
 私より、もっとずっとこの競技を愛している人がいる。そんな事実を思い知る。

 まだ、上がある。
 ただ上だけを見られる幸せ。

 受付に戻る。コーチは「ひどかったね」とも「こんなか弱い子相手に、もうちょっと手加減してほしいよね」とも言わない。それでも被害者になるのは簡単だった。10対0で勝てる自信がある。一つ上級のクラスに当たる隣のコートの人たちもこぞって見てた。みんながみんな、そうだそうだと責め立てるだろう。でも
「今度はタイミングを合わせる練習をしよう」
 コーチは何も言わない。最も間近で見てきたものに対して何も。それは、信頼だった。
 被害者ぶるのは簡単だ。でもはたしてあれほどの実力者が、人の声を聞ける人間が、弱いものいじめなんてするだろうか。自分の欲を優先させるだろうか。
「はい」とだけ応えた私を見て、コーチは笑った。その瞬間、全てを悟る。

〈今日は三人です〉
 本当の鬼は目の前にいた。






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