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また夢で会えたら




 これは一つの仮説に過ぎないが、「知ってる」と「理解すること」を類義語としたとき、対になるのは「知らない」と「理解できない」。前者はそこに発生した労力を踏まえて「責任」に近づき、逆に後者は対になっているため「無責任」に近づく。
 単純にこの単語同士を並べた時、「責任」は「頼もしさが宿る一方、その重みに堅苦しさを感じずにはいられない」。そんな表裏を兼ね備えた単語の対、「無責任」は「卑怯、小さい器、ひどいと社会にとっての害悪」と、一貫して裏のみで構成されている。ちゃらんぽらんという、何処か憎めない感じが含まれているならまだしも、それもキャラクターの力を借りないと難しい。そうしてそんなキャラクターでさえ、どこでも通用するとは限らない。
 今回は通常長所は短所の裏返しと言われるにも関わらず、長所の見えづらい「無責任」について話をしようと思う。


〈例〉これはある日作者の見た夢である
【躍動するしなやかな筋肉。カウントに合わせて右へ左へ。似たような体格の二人のダンサー。その骨、腱、筋に合わせた動き。しなる長い手足。にこやかで優雅。けれどもその指先、いや爪先の美しさときたら。豊かな表情とは裏腹に、静かに静かに研ぎ澄まされたもの。高く上げた足先。ぴたりと静止する。この体勢を維持するために張り詰めた筋肉。ハムストリング、ヒラメ筋、僧帽筋、上腕二頭筋。イチイチスポットライトを当てなくても見える。爪先の美しさ。それはそこだけに終始しない。
 ぴたりとした衣装。引き締まったヒップ。男性の体格を持ちながら、その指先の動きは、単に男性と断定するにはいささかしなやか過ぎる気がした。その口元に当てた手。立てた小指。ダンサー二人が合わせ鏡のようにして挟むは我が旦那。いささか照れ屋な主人は、最初こそ戸惑っていたが、うまいこと乗せられて、見よう見まねで踊り出す。今後一生見ることはないだろう、その光景を何となしに眺める。
〈え、ニューハーフってこんな美人なの?〉
 一区切りついて休憩室に入ると、スマホの動画を見ながら旦那が言った。その後も食い入るように画面を見つめている様子を尻目に部屋を出ると、さっきまで踊っていた二人が視界の端に映った。いかんせん気分が高揚していた。
〈主人がニューハーフいいなって言ってました〉
 途端空気が凍りつく。向けられた目、その殺気に気圧される。二人は短く声を掛け合うと、すぐ様その場を離れた。
 ひどく取り乱した拍動とだけ取り残される。その後、物理的な距離から取り戻した冷静さに、自分の口にしたことを反芻する。
〈主人がニューハーフいいなって言ってました〉
 完全に手遅れながら背筋が焦げる。
 違う。そうじゃない。
 伝えたかったのはそういうことじゃない。
 口をおさえる。あごを握り込む。ひゅう、と漏れたのどの奥。胸が焦げる。
 違う。普段聞かない単語を耳にして、そのまま口にしてしまっただけで、ニューハーフだからいいなと思った訳じゃない。私が感動したのはその動きであり、伝染するリズムであり、全く不慣れな旦那にも丁寧に接する心遣いそのもの。そこにその人の性別は関係ない。あるいは旦那という、後ろ暗さのない関係も暴力じみたかもしれない。前提の違いというのは、それだけで二重にも三重にも溝を生む】





 浮上。話を戻す。
 また夢で会えたら。このタイトルは、先の二人のダンサーに再び会えたら自分はどう振舞うべきかというもの。
 例えば「そんなつもりはなかった。ただ一方的に近づきたかっただけ」と伝える。
 例えば「不快な思いをさせて申し訳なかった」と謝罪する。
 上記二つは責任、無責任で分類した時、前者に相当する。じゃあ後者の例を挙げるとしたら。
 例えば直接関わることなく遠巻きに見つめる。
 例えば一切なかったこととして立ち去る。

 責任、無責任。責任というのは、ある種烏滸がましい。
 人一人が意気込もうと、負おうと思って負えるものが責任だとしたら、それは本来取るに足らない。もちろん全てではないが、逆に負わざるを得なくなったもの、ある日突然降りかかる災厄には、たぶん責任という言葉は当てられない。やむを得ない、それはどちらかというと義務に当たる。
 じゃあ例えば、本人は負えると思って負った責任が、実際本人には負えないものだったとしたら。それをジャッジするのは当事者あるいは第三者。第三者がいればまだしも、当事者だけとなると、被害者が出る可能性がある。往々にして自分の輪郭を分かっていない人間こそがキャパをも見誤る。
 例えば二人のダンサーに「そんなつもりはなかった」と伝えてしまったら、二人は許さなければいけなくなる。仮にその場で許せなかったとしても、そもそも嫌な思いをさせられた被害者の立場であるにも関わらず「許せなかった自分」という後味が残る。一方謝った本人は、リセットとまではいかなくてもある程度消化してその場を終える。
 じゃあ逆に傷つけた相手に関わらない、というのは完全に無責任だろう。傷つけたなら謝らなければいけないと教わった。でもそれは葬式同様、こっち側の自己満足という色が濃い。いつだって不満を飲み込むのは言えない側。
 もちろん理解しようとする行為自体を否定するつもりはない。そこにかける時間はそれはそれで尊いし、「無責任」の通じない場面できっと役に立つ。けれども例えば個人の意思でどうにでもなる時、無理に何かをねじ曲げる必要もないと思う。私もあなたも。
 前提の違い。どうにもこうにも理解し合えないなら無理にしようとせず、ただ各々自分にとって心地いい場所で生きていけばいいものを、やれ多様性だやれ制服だ、騒ぎ立てるからおかしくなるのだ。烏滸がましいのだ。理解した風を装うこと自体。だったら。

 悪者のままでいい。ちゃんと悪者としてその人に刻み込まれることまで受け入れて立ち去るのが一番のやさしさではないか。無責任。誰かがそう評価したところで、だから何だというのだ。大切なのは、相手にとって最も良い選択肢を自ら選び取ること。その結果、無責任であることが最良ならばそれを実行するまで。答えが出た。


 また夢で会えたら。私は主人を託してその場を立ち去る。踊り続けるも、私を追うのも旦那次第。それでも、振り返った時、そのパフォーマンスが偶然見えたなら、頭上で短い拍手ぐらいはさせて欲しい。ただ心の赴くがままに。言葉が通じなかろうと、一人の心は動いたと、それさえ伝われば。その努力を、愛したものを、肯定したいと思った私を赦して欲しい。

 さよなら。また夢で会う日まで。





*これはあくまで一個人の考えです。ダンサー二人の真意も適切な解答も答え合わせができず、間違ったまま提出している可能性が否めません。知らず傷つけている方がいらっしゃったら謝りますので教えて下さい。





【参考】
・「酒飲みの気持ち、分かっただろ。取り返しのつかないことってさあ……あるよねえ。大事なものが指からこぼれてって……もう、どうやっても取り戻せないのよ。それを忘れたくてさ、飲んじゃうんだよねえ」(『恋なんて本気でやってどうするの?』♯10)
・神野正史さん『現代への教訓!世界史』chapter03狩猟民族と農耕民族


♯ 眠れない夜に








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