その娘、危険なワイフ【連載小説】(9/22)



【続、2016年8月13日(土)】
「どうなってる」
 交代で入った形式練習。奇数のため、必ずしも正規のペアとのみ入る訳ではない。
 そのシャツの喉元をぐいと引き上げて汗を拭くと、見事に割れた腹筋が覗いた。
「何が?」
「知らん間にできることが増えてる」
 その口角が上がる。テニスが好きで集まった人達。その中でもあの人のテニスを一種拠り所にしているブラザーは、相方の変化を最も近くで感じ取る。
さっき見たばかりのスマッシュ。
〈やるとなったら手加減しないぜ?〉
 ブラザーはやさしい。攻め方なんていくらでもある。手加減こそしなくても相手に不快な思いをさせない程度の調整はする。あのスマッシュを眼前で打たれたら、あたしだったら一瞬で戦意を喪失していたに違いない。
 ふふ、と笑う。
「本人の努力の賜物ですよ」と言うと「随分楽しそうだなオイ」と返って来た。
 あと1ヶ月と半月。
「……。……お前よく待ったな」
「ん」
「ちょっとすればすぐいい相手見つけて『ごめぇんブラザー』とか言われると思ってた」
「ん」
 どこか言い方に悪意を感じなくもないが、ブラザーはコートを見たまま言った。
「好きか? アイツが」
 ん、と頷く。アドバンテージレシーバー。寺岡さん側がリターンだった。高い打点での返球。次の瞬間、

 え。

 肩を掴んで引き寄せられる。ドン、と当たったのは硬い身体。鋼のような筋肉は、とても一般人とは思えない。続くラリー。早いテンポ。レーザービームがストレートを抜けた。ゲームが切れる。
「次俺の番―」
 そう言うとブラザーは踊るようにしてコートに入って行った。

 スクールはお盆の1週間後に1週分の休講を挟む。日曜始めのサイクルであるため、最後からひとつ前のクラスに当たるこの時間帯のコマが終わると、ほとんど休みに入ったかのような静けさを感じた。単純に最後のコマの参加人数が少なかったためかもしれない。
 いつも通り終わってコートを出ると、寺岡さんに声をかけられた。足を止めて振り返る。先を行くブラザーと距離ができる。
「休みはいつまでなの?」
「8月から9月までです」
「うわぁ、言ってみたいそんなこと」
 でも丸2ヶ月休みがあった所で、課題やバイトなんかをしていればこっちに帰って来るのなんて1週間程度だ。寺岡さんは「充実してるなぁ」と言った。
 歩調を落とす。ゆっくりとしたテンポ。ブラザーの背中が見えなくなる。
 思い出す。前のクラスにいた時、真っ先にコートを出たのは杉田さんか鈴汝さん。次いでブラザー、その後あたし達が続いて、寺岡さんが最後だった。
「前に待っててって言ったよね」
 待っていてもらえませんか、と言った。あたし、早く大人になるんで、と。
「あれはどういう意味?」
 まぶしいライトが背後から照らす。歩調がゆっくりを通り過ぎて、とうとう立ち止まる。
 スタートライン。あっちとこっちの線引き。
 逆光。まっすぐ見上げる。

 生物学上の女。
 決まったパートナーがいようと、子供がいようと関係ない。
 淡々と練習していた男達にくべられる薪。ぐん、と上がる火力。
 雰囲気が変わる。
 深い所で首をもたげる本能。己が最も優秀であると示すために。それは濃い雄の香。
「君は子供扱いされるのを嫌う、と言っていた。そんな君が、まるで次は自分の番というように妹の隣にぴったり並んでいたのは何で?」
 よく紅葉の頭をなでていた。ふわふわの手触りがいいのだろうと思って、長さをそのまま、パーマをかけた。「髪型を変えた」
「前に紅葉ちゃんに振動止めをあげたことがある。本人は『無くしちゃってごめんなさい』と言っていたが、あれはどんな動きをしようと、打っている間中外れないものだ。それこそ意図的に外さない限り。君、何か知ってる?」
 寄る辺。返すタイミングを逃して、それは今もまだ一番上の引き出しに入ったまま。
「あと、その右のポケットに入ってるのは何?」

 いつにない。
 どうしてそんな意地悪な聞き方をするんだろう。
 いつだってやさしかったのに。そんな言い方しなくてもいいじゃない。
 追い詰められる程に何だか嫌な気分になる。正しい答えを放り出したくなる。
 寺岡さんの表情は変わらない。変わらないけれど、威圧するような何かを感じる。
 嫌だ。
「……。……何でもありません」
 そう言って歩き出す。小走りになる。
 ばくばく言っている心臓。母が待つ駐車場に走って戻る。


【2016年9月21日(水)】
 8月に学校行事の関係で帰って来れなかった紅葉が、9月の後半に帰省すると聞いて、それに合わせて再度あたしも帰省した。
久しぶりに前のクラスに顔を出すという。大半のメンバーは替わっているけれど、残っているメンツはいる。せっかくだから一緒に行くことにした。あのカタコトアキラに今の実力を見せつけてやりたいというのもあった。
 行くと、知ったメンツは鈴汝さん、五十嵐さん、伊織さん、そして
「どうしたアキラ」
 アキラもいた。でも何だか調子が悪そうだ。顔色が悪いとかじゃなく、純粋に動けていない。体力ぐらいしかイイトコないクセに、これじゃあタダノアキラだ。
「どっか痛めてるのか?」
 聞くと「大丈ブ、ただの筋肉痛」という答えが返ってきた。伊織さんを前に格好つけられていない辺り、本当のようだった。
「言うけどいつ治るんだよその筋肉痛とやら。最近ずっとじゃねぇか」
 それなりに気にかけている五十嵐さんは「もう、しばらく経つぜ?」と続ける。
「ボクにしかできないコトだから」
 頑張る、と言ったアキラはヨボヨボしながらコートに戻る。
 鈴汝さんが「早く」と言った。さすがだった。

 1コマ1時間半。規定通りの時間動き終えると、ヨボヨボしていたアキラがせっせと後片付けをして足早にコートを出た。まるで何かに追われているかのような動きに、どこか無理を重ねているんじゃないかと思う。紅葉と顔を見合わせると、急いでその後を追う。
「アキラ、無理しちゃダメだ」
「アキラ、おっさんは無理しちゃダメだ」
 おっさんじゃないカラ! とちゃんと突っ込みつつも、その歩調は変わらない。
 五十嵐さんは「もう、しばらく経つ」と言っていた。今に始まったことじゃないのならなおさら、ある日突然バッキリいってしまうかもしれない。
「アキラ」
 必死でついていった先、見覚えのある影を見つける。紅葉も驚いている。それは
「何で……」
 寺岡さんだった。
 アキラは「お待たせしました」と言うと、あたし達を振り返る。
「今から寺岡サンと打ちニ行くから、ここでバイバイ」
 心配してくれてありがトう、と言うと、寺岡さんの車の助手席に

「ちょっと待って」
 乗ろうとしたが、そのまま止まった。寺岡さんはあたしに向かって呼びかけていた。
 そのまま「アキラ」と声だけ投げる。
「今日はいいにしてくれるか? また今度頼む」
 そう言うと、本人こそそれを言い出したくて仕方なかったんじゃないかと思うくらいの音量で「イイの?」と言った。敬語を忘れていた。
 その後、紅葉の方を向くと「お姉ちゃんと話してく。お母さんに21時には帰るからと伝えてくれないか?」と聞く。紅葉は両腕で頭上にマルをつくると「オッケーブラザー」と言った。
 気が変わらない内に、とでも思ったのか、アキラはそそくさと帰って行った。まだ母親の車は見えない。いつも片付けに時間がかかっていたため、もう少ししたら現れるのだろう。
 フロントを五十嵐さんと伊織さんが通るのが見えた。寺岡さんは「乗って」と言うと、助手席にあたしを促してハンドルを切った。




 


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