その娘、危険なワイフ【連載小説】(17/22)



【2017年元旦】
 寝た気がしなかった。
 目をつむって開けたら朝だった。けれどもそれは母が起こしに来るより先のこと。
 妙に冴えた頭。少しして階段を上がって来る音がする。身体を起こす。
 顔を洗うと客間に来るように言われた。普段は襖の中にある、着物を収納している大きな引き出しが、既に表に出してある。
 足袋。肌襦袢。タオル。長襦袢。伊達締め。着物。
 それは毎年見る光景。六畳程度の客間いっぱいに溢れているもの。その奥に見慣れないものがあった。
 一辺三十センチ大の黒い漆の入れ物。
 何だろうと思うと同時に「来なさい」と言われる。
 黒い漆の入れ物。母にその傍に座るよう促すと蓋を開けた。それは化粧道具だった。
 細いハサミで眉を整えると、頬、こめかみ、額にカミソリを当てる。
「顔を洗って来なさい」
 洗って戻ると、下地から始めてコンシーラー、ファンデーション、白粉。アイカラー、アイライン。まつ毛を上げると、まっすぐペンを立て、眉を足す。ハイライトと頬紅。仕上げに口紅。
「濃くない?」
「普段が薄いの」
 いつもの顔じゃ着ているものに負ける、と言われる。まさか毎年着付けをしている張本人から出る言葉とは思えなかった。
 そうしてそれは確認作業だった。
 着付けを教えて欲しい、と言った時と同じように、母は一つ一つの工程を唱えながら、着物にふさわしい体型に整えていく。
「ここで身体の凹凸を無くす」
 知ってるよ。
「ここに合わせる」
 知ってるよ。
「ここはしっかり締めておく」
 だから。
「知ってるよ。自分でできるよ」
 そう言うあたしの声なんて聞こえないかのように、淡々と進められていく。問答無用でギュッ、ギュッと締め上げられる。
 締め上げられる。いくらなんでもキツすぎやしないか。もはや八つ当たりにさえ思えてくる。苦痛にたまらずうめいた時、何故か分かってしまった。
 ギュッ、ギュッ。
 一瞬、息をするのを忘れる。
〈しょうがないなぁって〉
 胸が、つまる。
 ギュッ、ギュッ。
 音に起こさない思いがある。
 しょうがないなぁって、言いたい人もいれば、言えなくなる人もいる。
 関係が変わる。
 それは人が亡くなる時、別の場所で新たな命が芽生えるように、別の場所で新たな何かが芽吹く時、同時に何かを失うことと同じだった。
 娘にできることが無くなっていく。当たり前にして来たことが、なくても生きていけるようになる。その存在は、いずれ必要ではなくなる。
 お母さん。
 その後、着付けを終えると、重たい身体を起こすようにしてようやく立ち上がる。
 その、小さな身体。
 母は目元を細めてしみじみ「大きくなったわねぇ」と言った。
「キレイ」ではない。「大人びた」でもない。決して自分が欲しがっていた言葉ではない。けれども、それはずっと近くで見ていた母からこそ、生まれ得た言葉だった。
 車の音がした。母は踵を返すと「足元気をつけなさい」と言った。

 何で分かったんだろう。寺岡さんは見計らったかのように現れると、玄関のドアを開けた母に頭を下げた。
 驚く。着物だ。そういえば実家が呉服屋だと言っていた。それはこの人にとっても正装に当たるのかもしれない。
「カズハ」
「はい」と返事をする。
 それは、最後の命令だった。
「行きなさい」
 息を呑む。目の前にある小さな背中。母は振り返らない。
「でも」
 今から親族の集まりがある。もう紅葉も準備をしなければいけない。
「いいわ、出なくて。あなたはもう成人したから、自分が望む所へ行けばいい」
 早く、と言う。
 年に一度しか履かないから歩き慣れない足袋。同じく着物によって慣れない歩幅に、せかされても思うように進めない。ようやく助手席に乗り込む。
 振り返る。
 玄関。その姿が遠い。
 その、よく通る声。
「自慢の娘です。どうか宜しく」
 母はそう言うと、ただ一度だけ頭を下げた。
 声が、出なかった。
 寺岡さんは「承知しました」とだけ答えると、運転席に乗り込んだ。バックミラーに母の姿が映っている。
 いつまでもいつまでも映っている。

 年始、親族で集まるのは寺岡さんの方も同じだという。けれども皆が皆一同に会するというのではなく、それぞれ自由に行き来するスタンスのようで、自然、毎年会う人と、何年かに一度会う人ができるらしい。
「だから並んでるのがおせちってだけで、普段と何にも変わらない」と言うが、一度の規模が違うだけで、うちだって似たようなものだった。
「どこに行きたい?」
 ハンドルを握る寺岡さんの頬を日の光が照らす。少し前まで眠たげだったそれは、徐々に明度を上げ始めている。どこに行くにしても楽しそうだ。
 希望。期待。心機一転。新しい自分へ。今年こそ。
〈あなたは自由に生きなさい〉
 今頃母も紅葉も親族の集まりに出ている。当たり前にそこにいて、当たり前に毎年の行事をこなしている。太陽の光の届かない冷たい台所から、当たり前に皆をもてなしている。
〈その位ヤバい力持ってるヤツが〉
 無自覚。知らずに手にしてしまっていた力。
〈あなたはもう成人したから〉
 世間一般にはもう子供じゃない。でもあの人にとってあたしはいつまでも子供のままだ。大人と子供の境、「その力」はまだ使える。
 目をつむる。
 思い出せ。大事なのはベクトルの向き。それさえ違わなければ大丈夫。だったら。

 その位ヤバい力、今使わなくていつ使うんだよ。

 ゆっくり目を開ける。
「母の元に」
 視界は明るい。今の瞬間に限って、暗闇などどこにも存在しないかのようだ。
余すことなく照らす光。でも「余すことなくはない」ことを知ってしまった以上、動かずにはいられない。
 寺岡さんは「分かった」とバックミラーを見ると、ためらいもせずUターンした。道を教えてと言う。でもあたしには、今いる所からの戻り方が分からない。とりあえず自宅近くのコンビニまで戻ってもらうよう伝える。
 何の摩擦も生まれなかった分、後ろめたさが増した。絞り出すように「ごめんなさい」と伝える。返って来た声に棘は見当たらなかった。
「どうして」
「だって、せっかく来てくれたのに」
 寺岡さんは「そんなの」と言うと、頬を緩めた。
「音もなくポロポロ泣いてる君を乗せて行くとこなんて、他にないよ」
 そう言うと、窓の縁に肘をつく。だからその左手はハンドルを握っている。
首を振る。母が結ってくれた髪の根元で、赤いかんざしが揺れた。
「……苦しかったね。僕に気を遣って今の今まで言い出せなかった?」
 膝の上で握りしめている手が震えた。
〈帰したくねぇな〉そう言った時のことが頭をかすめる。うれしいと感じた思いに偽りはなかった。
 苦笑い。
「まぁ、間違ってはないけど、少なくとも今じゃないよね。そっちが正解だ」
 見慣れた景色に戻って来る。見たくない景色に向かって行く。
「はい」とティッシュを渡された。
「顔を戻して。その顔じゃ出られないでしょ」
 受け取る。もう一度「ごめんなさい」と言うと、思いの外、明るい声が返ってきた。
「しょうがないなぁ」
 そうして「やっと言えた」と笑う。つられて笑ってしまった。
 怖くない、と思えた。

 縁側を進む。既に出来上がっていた集団が、突如現れた足音に一斉に顔を向けた。
「遅くなりました」
 定型通り新年の挨拶を済ませると、早速台所に向かう。
母がいた。驚きに動きを止めている。
「紅葉」
 追いかけるようにしてついて来ていた妹に呼びかける。
「お母さんを連れて行って」
 この冷たい場所から。この寂しい場所から。ちゃんと日の光の当たる所へ。
「分かった」と言うと、母の手を引く。母は紅葉には従った。昔から「やさしさ」を説いて来た相手。母は紅葉にだけは弱みを見せられた。
「カズハ」
 母が呼んだ。一つ頷く。
 強さを。不条理を跳ね除けるだけの強さを。
 あたしが「紅葉」と呼ぶ。紅葉が一つ頷く。
 やさしさを。弱さを赦せるだけのやさしさを。
 きちんとこの人は与えてきた。どちらも欠けることのないように。一人で成り立ってしまわぬように。
 息を呑むのが分かった。
 さっき縁側で膝をついた時、自分を見る目が、今ある力の持つ意味が、使い方が、全て分かった。
 冷蔵庫を開ける。食材はあった。毎年順番に出していたもの。
 つまみからメインまで、一通り出揃っている。足りないのは一品だけ。あたしができる一品だけ。
 ニンジンを掴む。

「面白かったよ」
 そう言って当時のことを紅葉は笑った。
「日は当たってた?」
「うん。風が通っても、日当たりが良いと、この時期でもあったかいね」
 そうして目を細めると、その時のことを話し始めた。

 一品だけ。味噌汁を作った。
 普段ほとんど皆の前に姿を見せない母が代わりに縁側に現れると、広間がざわついた。「妹の方」が台所に呼ばれ、椀を運ぶ。
 せっせと配られた、何の変哲もない味噌汁。何ら変わらない毎年のことに、変に緊張した空気を和らげるように、すぐにぎやかさを取り戻す。笑いながら片手で掴む椀。
 しかしその後、大した時間も経たない内に気づく。一人、また一人、気づき始める。
 笑いながら口にしていた椀の中身が、いつの間にか無くなっている。
「おい」
 呼ばれた紅葉が、渡された椀を持って台所に戻ると、それは空のまま戻ってきた。突っ立ったまま口にする。
「お姉が『自分で来ん人にはやらん』って」
 少しの静寂。続けて起きたのは失笑と、仰々しい笑い声。それは大事な、大事なプライドを守るため。
 紅葉はそのまま背を向けると、自分の椀を持って台所に向かった。その後、ちゃんと中身の入った状態で戻ってくると、うれしそうにすすり始める。
 笑い声の残響。まだプライドは保たれている。大事に大事に保たれている。続けて立ち上がったのは父だった。台所に顔を出す。
「大きくなったな」
 しみじみ母と同じことを言うと、椀を片手に広間に戻っていく。笑い声が活気を取り戻す。自ら頭を下げに行くなんて、とても格好悪くて真似できないや、と。プライドってもんがないのか、と。
 物静かな父が、一息ついて口にした。
「安いもの」
 笑い声の谷間に響く。
「もうたぶん、食えん」
 表情に宿る。それは成人した娘の残したもの。その、眼前、得られるかもしれない幸福。
「もうそんなに残ってはいない。よかった」
 そんなつぶやきに、笑い声の山が消えた。ただ一度だけ「だから何だってんだ」という声がしたが、後は続かなかった。

 誰かの喉が鳴る音がした。

 張り詰める空気。周りの動きに敏感になる。少しして一人が「便所」と言って立ち上がる。すぐさま「椀持って行くのかよ。それにするならここでした方が早ぇよ」という声がした。誰も笑わなかった。
 一人が立ち上がった。
「いやあ、喉が渇いたもんで」
 だったらしこたま飲めや、と散らばっていた酒が押し寄せてくる。一笑。次の瞬間、
 男はテーブルを飛び越えて台所に向かった。引っ掛けた湯飲みが畳の上に落ちる。それが引き金だった。
 途端、堰を切ったように、我先にと台所に人が押し寄せる。反動でテーブルから転げ落ちた皿や湯飲みが畳を汚した。縁側で太陽の光に包まれている母は、その様子を他人事のように見つめていた。
「潮時かもね」
 隣には紅葉がいる。
「いいの、もう。私の役目は終わったから」
 日の当たる縁側。広間。並んだ酒。食い散らかされた食べ物。落ちた皿、湯飲み。
「わびさびなんて、私には一切分からなかった」
 隣には紅葉がいる。
「でも、もういい。どうでもいいの」
 あったかいから。そう言うと、目を細めた。隣で紅葉が笑った。
 初めて日の元で迎える新年、いいことがありそうだと言ったという。
 あたしも笑った。 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?