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【1、コートの上の赤子】 独り言多めの映画感想文(井上雄彦さん『THE FIRST SLAMDUNK』)


 いかんせん動機が不純過ぎる。
 いや、当時は気にも留めていなかったが、一目見てかわいいと思った女の子に好かれたい一心で一つの競技を始めるとか、改めて考えてあり得ない。仮に「好きだ」と言ったところで、ルールも知らない以上、すぐ行き詰まることは誰の目にも明らか。
 そんな「その場限りの心地よさ」のための見切り発車は、もはや後先考えず借金を繰り返すギャンブラー。常識人には通用しない感覚。そう。
 この男は「危険を察知して踏みとどまることのできる常識人」を凡人と呼び、「ためらわずアクセルを踏み抜くことのできる己」を天才と呼んだ。一寸先は闇かもしれない世の中で、輝く己の未来を信じ抜くことのできる、それは確かに一種の才能なのかもしれない。

 個人だろうと集団だろうと、競技は基本自立した個人を前提としたもの。しかし全くもって手のかかる存在の介入は、心底その競技に惚れ込んでいる側からしたら相当なストレスい違いない。ついでにそんな素人を入れているチームとして、一流のチームメイトもまとめて恥をかくという実際の様子が映画内に見られた(桜木がフェイントを2回使ってダブルドリブルを取られた時の流川のツッコミはかなりリアルだった。あれはまだやさしい方だと思った)

 漫画は主たる表情や動きを切り抜くが、映画ではあえて引いた視点で全体を見せることが多く、桜木の大袈裟な動きは嫌でも視界に映り込んだ。と同時に気づいたのは、素人を一人入れることで生まれる結束力。漫画では陵南の田岡茂一監督が、体力の限界ギリギリでコートに立っている三井を「赤子」と表現したが、本当の赤子はこの男だった。

 一つひとつ教え、自立を促し、できるようになったことを認める。もちろん本人の努力ありきだが、揃いも揃って一流のプレイヤー達が自分の強みを活かして戦う中、自負があまりその視野が狭まることを食い止めたのは、いつだってこの問題児だった。
 漫画では「赤子」本人の視点だったため気づかなかったが、こうして視点を変えて、一歩引いて見ることで見えるものがある。加えて、桜木を「赤子」と称するのは、「保護者の目が必要」ということだけに留まらない。それは「迷惑をかけることに対して全く悪びれない」ことも含まれる。

 競技を愛する者は、少なからずその競技の中で「役に立ちたい」と思う。どうしたら役に立てるか考える。だから時に役に立てない、力不足だと落ち込む。引け目。自分には勝利のための責任を負えないとして、その場に踏みとどまる。けれど自らを天才と豪語する男は「何が良くなかったのか」その中心だけを捉えて、すぐに軌道修正する。知らないことを当然としているため、教えられたことを素直に受け入れ、実行に移す。
 前提が素人ゆえに人と比べることなく、そもそも「迷惑をかける」という概念そのものが存在しない。それどころか周りを踏み台にして高笑いしている。その姿はまさに「根拠なき自信」の権化。

 幼さ。それは周りの許容ありき。けれどそういうキャラクター、位置付けは、一度確立してしまえば、それがその人の個性、輪郭になり、ありのままの自分でいられるようになる。しかもそんな手のかかる存在として認識されているからこそ、何かひとつできるようになったり、予期せぬ手柄を立てたりするだけで、こぞって皆驚き、まるで初めて立ち上がれたかのごとく褒め称えるのだ。本人うれしいに違いない。だからどんどん成長は加速する。
 チームメイトに見守られて成長する主人公。さながら「はなみちくん成長日記」かつて得られなかった愛情を一身に受けて育つような、そんなほほえましさ。


 それもこれも「どう考えてもバスケ好きじゃないじゃん」と分かった時点で早々に見切りをつけることなく、それどころか「ボールを持ったまま走ってる」とか「すごいジャンプ力」という(都合の)いい所を見つけて褒めちぎった春子の存在が大きい。
「すごいよ桜木くん!」
 そのために救世主は生まれたのだ。

 ただ映画本編では、かの有名な「大好きです。今度は嘘じゃないっす」のシーンはない。
 これはこの山王戦において不必要だから削り取ったもの。映画制作の際、原作者がもし作品を他者に「売って」いたら、ここぞとばかりに入れられていた気がする。それほどまでに純度が高い。
 最終的に「恋」というπの大きいものに依らず、きちんと描きたいものを描いた。
 この映画の魅力はそんなところにもある。





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