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純度の高い遊びにマナーはつきものです、1ー①【feat.嫁】



【遊び】
1、非生産的で生きていく上で必ずしもなくていいもの。
 実利関係なく心を満たすために自らすること。
2、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりを持たせること「ハンドルの─」
3、ゆとり「芸に─がある」
〈遊〉「揺れ動く」の意。個人の日常化した遊び:趣味



 いや、ほんの出来心だったんだハニー。ホントそんな気全然なくて、ホラ、一時の気の迷いっていうか。いや、そうじゃない。全くダメって訳じゃなくて、自分がどうこう言うのもおこがましいくらい、あの子はあの子でいい子なんだよ。ただホラ、何て言うかホントマジな時頼りにできるっていうのはまた違うっていうか。うん。
 だから分かったんだって。いつも当たり前だと思っていたコトが当たり前じゃなかったって。悪かったって。謝るから。ホラこの通り。御免なさい。



「テニスをする」と言ってもその内容はコミュニケーションを目的としたり、勝負を目的としたりするように、ただ打ち合うことだけが全てという訳ではない。股抜きショットがあったり、非利き手で打ってみたり、実は純粋なエンターテイメントとしての一面もある。
 私自身、今までただ打つことだけを真面目に真面目にやってきた。そんな誠実さは、けれどもどこか片寄っていて、何て言うかもっと楽しみ方がある気がして。それは必ずしも一方向からだけでなく、もっと別の角度からこの競技を見てみたいというような「遊び」。試合に活きるとは限らないある種のムダが、実際見ている側を沸かせたりする。
 そういう意味では笑えるのって結構大事だと思う。特にガチガチに真剣勝負が求められがちだからこそ。何のためにテニスをするのか。根っこはいつだって「好きだから」。なら何故好きか。それは決して単に「勝ちたいから」ではないと思う。
 この競技と出会った時、きっと誰しも対面で打つところから始まっていて、きっと誰もがそこで心地よさを感じたはずで、楽しいから。楽しみたくてラケットを取った。のめり込めばのめり込むほどそのことをつい忘れがちになる。私もまた、ただラリーがしたくて、そのためにラケットを手に取った。けれども。


 真っ白なラケット。tempoはまるで「若い女の子」
 実際プロの山口芽生さんが使用していて、愛らしい容姿そのもの。
 やさしい寒色の色味。持っているだけで気分が上がる。
 固めの打球感。弾きのいいガット。インパクト時の特徴的な高音。軽量。
 テンションがあがる。私自身、楽しくてブンブン振り回した。しかし200球も打ったところで始めに感じたのは肩の違和感。早さを出すために肩を使う。手首の負荷はそっくりそのまま肩に乗っていた。これが本当の肩代わり(黙れ)サーブ。ヘッドが軽い分、純粋な重力がごときボールの重さを感じる。
 そうして違和感は徐々に大きくなっていく。飛びはいいが指先まで神経が通わない。結果入ったかも分からない無責任な打球になる。元々スピン用に作られたラケット。フラッターがほんの少し打ち出しの角度を違えただけで、スピードはそのまま、ボールがぶっ飛ぶ。「打球が暴れる」という感覚を初めて知る。繊細な感覚を追求する中で、インパクト時の高音がやけに耳につくようになる。普段に馴染ませようとする程に、「遊んで」いる内は気にならなかったことが気になり始める。それは普段真剣に向き合っている大元と比べているからに他ならない。


 いくぞ、と掴んだ時、完全に身体の一部になるもの。
 命じた時、忠実に望んだ弾道を描くこと。
 暴君に黙って従っていたものが、己が役割を遂行していたものが、まさか「自我のないもの」であるはずがない。

 あげたロブがインかアウトか打ち出した瞬間分かるのは。
 ショートストロークが手のひらで掴むかの如く完全に引っかかるのは。
 物言わぬ職人のなせる技。
 私の我の強さを許容する、それは強烈な個性の一つ。

 そうか。

 この競技にはいろんな向き合い方がある。それを知った上で、けれども私が最も重要視するのは、自分の思った通りの弾道を描くこと。それまでただ打つことだけを真面目に真面目にやってきた人間の、とうに指先を離れたボールにまで至る執着。責任。純度の高いコントロール。「それ」は力をかける価値あるもの。本当に愛したものには責任を負いたい。本来重荷であるはずのものを担ぎたくなる。それだけの価値がある。私を費やす価値がある。
 結局遊べない私の愛は重い。その重さに耐え得るだけの重量は最低限必要だった。





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