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猫が好かれるのはいいにおいがするから〜推薦図書、村山由佳さん『猫がいなけりゃ息もできない』〜1



「知っている」と一言で言っても、その理解度には段階がある。
 ただ意味を知っている。誰かを見て想像する。実際に体感する。
 私にとって「愛憎」という感情は長らく深度1を保ってきた。それを深度3までぶっ飛ばしたのはただ一匹の元ノラ猫「おかゆ」。にゃあと鳴いて手招き。招くのは福だけではない。それは家族であるからこそ起こる感情の起伏。
 猫好きがインスタやエッセイやTwitterで連日発信するのは、いかに彼彼女たちが素晴らしい生き物であるかという賛美。その様は当事者以外にとってどこか盲信的で、狂気的で、言葉を選ばなければ純粋に気持ちが悪い。ただ、一言に猫好きとは言っても、そこにもまた段階があり「猫様至上主義の保護猫団体」から「寄ってきたら愛でてやろう」まで幅広い。だからひとえに冷たい目をしないで欲しい。というのも、猫というやつは時にとんでもない悪行を繰り広げる、どうしようもなく憎たらしい生き物であり、猫飼い全てが100%猫好きな訳ではないからだ。
 かわいいから手の込んだご飯を与える。おもちゃを与える。その一方で「それなのに」何度叱ってもキッチンに上がる。ご飯のラックを落っことす。あくまでこちらが好きでやっていることだけれど「愛憎」そうして鬼の形相で叱りつける私と、右腕まるまる枕にされて大人しくクッションやってる私は同一人物。2022年6月、私は98%猫好きで、残り2%猫が大嫌いだ。さて本題に入る。

 この度とうとう「我が家で猫を飼うきっかけとなった本」を手に入れてしまった。
 村山由佳さん『猫がいなけりゃ息もできない』
 今からする話は、実にこのエッセイ一冊に収まるようなものではない。そもそもまだ読んでもいない本のタイトルだけを頼りに生き物一匹の命に責任を負うのだ。そこにはその作家さんに対する尊敬を始め、その作品によって得られた感性、喜び、満ちた時間全てに対する信頼があり「この人がそういうなら信じられる」という、ある種宗教じみた思いを発端とした行動、その結果として家に何の縁もなかった元ノラ猫と暮らすことになる。
 だからこれは純粋な異常である。
 大方ファンと公言する人は、ブログ、Twitterを追うだろう。けれども私にとっての彼女はあくまで小説の人であり、基本的にその作品しか読まない。とは言え、小説に限れば学生の頃「彼女の言葉がなけりゃ息もできない」時期があった位大きな存在だ。そうして今でもネットで新刊情報を追うよりも、言った先でまだ読んでないものはないか探す方が楽しくて、現代でもアナログを通している。しかしながら今回取り上げる作品はエッセイであり、だからこそ私が「作品しか読まない」理由も合わせてお伝えしようと思う。烏滸がましくもこれは私にとってのこの作家さんへの愛憎の話だ。

 私自身、物語を書き始めたのは大学2回生の時。当初は800字小説と呼ばれる超短編ものだった。その前は詩、さらに遡れば漫画を描いていた。その後ちまちま800字小説に毛の生えたものを書き続けていた私に同僚が教えてくれたのが地元のフリーペーパーの小冊子。定額払って載せてもらった後、小さな小さな連載をした。それは「大切な友人を公的に遺す」という、自己満足の域を一歩も出ない思いを叶えてくれた。
 1000字、1万字、10万字。
 その後、文字数が増えるほどに展開よりも背景、奥行きが必要になるのだと知る。そういう意味では10万字のものを書こうと20万字のものを書こうと、私の作品はまだ800字を引き伸ばしたまま。

 今からする話は、実にこのエッセイ一冊に収まるようなものではない、と前もって断りを入れさせてもらったついでに、村山由佳さんの小説の最新作を少しだけ紹介させてもらう。
『まつらひ』。短編集で、短編であるにもかかわらず、ひとつひとつが重い。正直初めて彼女の作品を手に取る人にはオススメしない。短編であるにも関わらず、その地域での「祭りに関わる文化」にこそを重きを置いた展開をしているため、そこで起きるドラマの役割はほぼ付属品のよう。もちろんストーリー自体を軽んじている訳ではない。ただ、帯にあるような「神々を祭らふこの夜、踏み外す 祭とエロス6つの秘密」は完全に商売用の煽りだと思った。ニッキーミナージュの『star ships』のPVを思い浮かべていた頭からボンと火を噴きそうになる。違う、と。
 違う。これは祭りの、その地域に脈々と受け継がれてきた文化へのリスペクトだ。ここに描かれているのは『ダンスウィズドラゴン』をさらに掘り下げた世界観。祖父から子へ、子から孫へ、脈々と血を絶やすことなく伝えられてきた物語。
 この本を読んだ時、脇腹を刺された気がした。短編の文字数で勝負する時、その中心を文化理解に置く。京極夏彦さんが有名な地を絶対に辿り着けない角度から解説しつつ、ホイ、とミステリー化させる短編集の『巷説百物語』も圧巻だったけれど、何なんだ。本当に何なんだ作家という生き物は。
 鮮明な炙り出しは、ただ取材するのではない。どこを切り取るか。そのために必要な情報は何か。研ぎ澄ますならどの方向に。その溝の深さにただただ恐れ入る。
 短編と言えば「予想を裏切る類のもの」「心を揺さぶるもの」その一種に「限られた文字数で縦に掘り下げるもの」があるのだと知る。そこには品の良さ、どこか余裕が見える。それ以前に単純に重きを置くところが変わる。興味の対象が変わる。もはや面白いどうこうの次元ではない。それ以上に、読んでるこっちが打ちのめされる。
 そんな苦い経験を何度繰り返そうと、読書自体やめられず、変わらぬ速度で同じ壁にぶち当たり続ける。いい加減クッションの一つや二つできてもいいはずなのに、やっぱり激しく打ち付ける。もうライフはゼロどころか、何度コンテニューを繰り返したことか。それでも傷つきに向かうのだから、本とは、作家とは恐ろしいものだ。さて、本題に戻る。





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