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13年分のリセット(前編)【feat.メガネくん】



 恋をしたことがある。もう二度としない類のものだ。
 粉雪の舞うテニスコートを今でも思い出す。サーブ、スマッシュ。あとは寒さに縮こめていた肩。ボールが打ち出されたその瞬間、背筋がス、と伸びたこと。機械の如き正確なストロークを生み出す男の相方だったその人は、矢面に立つにはあまりに柔和で、だからこそその細身の肩から繰り出される決め球に、そのギャップにこそ心奪われた。今考えても好きにならずにはいられなかった。例え残り3ヶ月でその地を離れると分かっていても。

 男がサーブのトスを上げる度、スマッシュの体勢をとる度、脳髄が痺れた。
 初めてのコンタクトを今でも覚えている。それは長いラリーを終えてベースラインに戻ろうとした時のことだった。ネットの向こうからかけられた声。
「女の子で俺とラリー続く子初めてやわ」
 それは父親に「さすが我が娘」と言われた時の感覚に似ていた。
 男はその後「うれしいわぁ」と言うと、またひとつ、ゴリゴリの回転をかけたボールを打ち出した。サービスラインにバウンドした打球は肩を壊さん勢い。ベースライン一歩後ろで受ける。ニコニコ崩さない笑み。
 その後チームメイトが休憩に入ってコートが空くと、男はとことこやってきた。その、やさしい口調。
「まだ肩は動く?」
 はい、と応える。肩で息をしていた。
「まだ足は動く?」
 はい、と応える。蓄積された負荷に膝が悲鳴をあげていた。
 気づかないはずがない。男はうれしそうに言った。
「そう。じゃあコートに入って」
 ゾッとする。鬼かよ、と思った。後にも先にもこの男以外に進んで私と打ちたがる男はいない。地区大会で優勝常連者だと知ったのはその後のことだ。
 そうしてその試合を見にいく関係になる頃には、私はラケットを持っていなかった。会場で試合をするための格好をしている女性から「あなたは出ないの?」と聞かれて応援だと答えた時にはつまらなそうな顔をされた。その時は何とも思わなかった。テニスよりも、その人が好きだった。そこには自らラケットを置かせるだけの力が発生していた。

 どこかで分かっていた脳みそが、涙腺に近い所を絶えず刺激し続けようと、男の助手席から眺めた景色は、一般道の高いところから見下ろすライトだろうと、港に浮かぶ工場だろうと一様に美しかった。悲しい時、月や夜景がやたらキレイに見えると『星々の舟(ヒトリシズカ)』や『猫がいなけりゃ息もできない』で書いていたのは村山由佳さん。私はこの時以上の景色を見ることは、旦那が生きている限りないと思う。

 男と別れた直後、心のついて行けなかった私は、平日休みだった月曜と木曜、14時過ぎたあたりの光に色がつき始める頃になると、いてもたってもいられなくなり、一人車を運転して自宅から片道一時間半の距離にある道の駅に向かった。そこは男が片道6時間かけてはるばる遊びに来てくれた時立ち寄った場所だった。 
 本人がいるいないではない。そうして何か関わりのあるものを愛でることで、己の気持ちを昇華しようとしていた。飲み込めない現実を何とか飲み込もうと必死だった。いや、違うな。あの時私は拒絶していた。いない、ということを受け入れられず、「いる体」で私一人、ドライブを楽しんでいた。泣きながら、それでもその時間を楽しんでいた、だから丸々一年同じことを繰り返せたに違いない。

先日のウインブルドン、男子シングルス3回戦キリオスVSチチパス(敬称略)の試合、結果キリオスの勝利に終わったが、その勝ち方は決して良いものではなかった。確かにチチパスがフラストレーションからボールを打ち出したのは良くない(観客席に入った)けれど、その行為をゲームが切れるたびに主審に向かって訴え続けるのはよく分からない。文句を言ってどうしたいのか。ペナルティが望みなら一度言ってダメなら諦めるしかないだろう。何にせよその日のキリオスはしつこかった。
〈僕たちはテニスをするためにいるんだ。他の人と会話したり、対話したりするためにいるのではない〉
 敗戦後、〈今日は自分のテニスを楽しめた〉とした上でチチパスはそうコメントした。
 断っておくが、私自身キリオスは嫌いではない。屈指のビッグサーバーでありながら、ストロークのタッチが非常に柔らかく、その緩急こそが武器をより鋭利なものに見せる。テニスに興味を持つ人を増やす上で彼のプレーは一種のショーとして成立するし、大坂なおみが窮地に立たされた時、全面的に彼女をかばったのも「ファンだ」と公言するキリオスその人だった。ただ、今回の一件で彼の見方が変わる。あれは神聖なものを汚す行為だった。過去にはチーム戦でダブルスを組んだこともある二人。勝利したとはいえ、「正攻法では敵わないとして、逃げた結果」だと私の中で記憶される。


「この時間帯来たことあったっけ?」
 昨日ぶりのコーチが私に向かって言った。「あります」と答える。
 振替、追加受講は別に特別なものではない。何故わざわざそんなことを聞くのか。「答えなんて分かっていた体」で聞いたからか、聞きっぱなしで向こうに行ってしまったコーチはボールの入ったカゴをこっちへ押しやった。

 3ヶ月か。

 3ヶ月すれば人は変わる。短いようで長い。それでも長いようでいてやっぱり短くもある。実際測ってみれば同じ長さの線。騙し絵を思い出す。
「こんにちは」
 メガネくんは、はっと顔を上げて頭を下げた。
 挙動不審は通常スペック。ショートストロークで同じサイドに入ると、それだけでわたわたしていた。自分と打ちたがっていると分かっているメガネくんは、いつだって気を利かせてネットの向こう側に回ってくれていた。しかし人数の都合上、それは叶わなかった。
 依存。それはこの男以上にラリーの続く相手がいないことに起因する。
〈女の子で俺とラリー続く子初めてやわ〉
 それは自己肯定。質の高いラリーの中だけに発生する、何もない私を私たらしめた一種の碇。サーブを始め、武器を磨き、増やし、苦手を埋めようとしてきた。今はもうあの頃の何もなかった私じゃない。
 あなたより回転量の多い打球を受けてきて、
 あなたより強烈なスマッシュを拾ってきて、
 あなたよりコートを広く使う、賢い戦い方をする相手と向き合ってきた。
 だからもう大丈夫。あなたは特別じゃない。それを確認したくて、再びこのクラスにやってきた。
〈この時間帯来たことあったっけ?〉
 白々しい。言いたいことがあるなら言えばいい。
 この私を効率から引きずり出すことのできる男なんて、この男ぐらいだ。
 そうとは知らないメガネくんは、最後に会った時のまま。
 指示されたショートストロークを返すと、きょとんとした顔で「うまあ」と言った。

 何が「うまあ」だよ。

 忘れていた。きょどきょどおどおど、基本の発声音は「あ」のカオナ●なメガネくんは、実はごくたまに感情を出す。チチパスのバックハンドがメガネくんの打ち方そっくりだと言った時「うふふ、調子乗っちゃう」とほこほこしていた時のこと。全然好みじゃないいい歳したおっさんのクセに、そうしてうれしそうにしている時だけはかわいいのだ。近くに壁があったら蹴り破っている位に。

 何が「うまあ」だよ。こちとら全力で叩き潰しに来て……
 目を見張る。交代で入るラリー。ボールを掴んで振り返った瞬間、その背中で視界が埋まった。反射的に下がる。深い山なりの打球。ベースラインをボール一つ分割ったそれをサイドスピン、バックハンドで打ち返す様。

 3ヶ月。
 3ヶ月あれば人は変わる。短いようで長くて、長いようで短い。
 でも3ヶ月は「定着」には程遠い。この人のこのバックハンドを一体何度見てきたことか。
 ちきしょう。
 心が軋む。
 相手をしてもらう、ではなく、相手を超える。そのための努力をしてきた。回転量の多い打球、強烈なスマッシュ、賢い戦い方、全部が全部、まさかこの男と打つことを想定してきた訳じゃない。
 自分軸。私を取られるな。
 もう二度とラケットを手放さないと誓った。あれほどの痛みを味わった。のに。







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