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アラクネの繭

「あれ、あの資料どこいった?」
 コモン・リンドウはデスクの下を覗き込む。床に落ちたままだったチョコの包み紙を拾い上げ、部下に隠れてこっそり捨てた。
「またなくしたんですか」
 呆れ声にコモンは口を尖らせる。同い年の部下、ミワ・アサヒカワは容赦なく言い放つ。
「整理整頓。これ、社会人の基本です」
 ミワは書類やら文房具やら書籍やらお菓子のゴミやらで汚れたデスクを指差す。君だって最近まで学生だったろうに、とコモンは口を尖らせた。
 電子帳簿保存法が施行されて四半世紀。紙の書類なんて数えるくらいしかないはずなのだが、コモンのデスクは旧時代のサラリーマンのデスクを体現したようだった。
「いやだってさ。ミワさんがオックスの電源切っちゃうから」
 眉を下げて言い訳するコモンにミワは少し罪悪感のあるような表情を浮かべた。
「それに関しては申し訳ないと思っているんですよ。これでも……」
「あー! うそうそごめん! ロボット壊れちゃうもんね! ミワさんは優しいなぁ!」
 慌てて言い募るコモンにミワはほっとため息を吐いた。高度に発達した補助ロボット、通称オックス。脳波信号を読み取り、人々がもっとも必要とする時に、絶妙なタイミングでアシストしてくれるロボット達の総称だ。
「コーヒー入れてくるよ!」
 例えばこんな時、オックスがいてくれれば、コモンが自らコーヒーをサーバーに取りに行く必要はない。サーヴ・オックスが命令もなしに持ってきてくれるのだ。コモンが子供だった頃の補助ロボットは個体識別名を叫んでから命令文を読み上げる必要があった。いまのオックス達はそんな必要もない。
 壁際のキャビネットに乗せてあるサーバーまでたった数メートル。けれども、家でオックスに頼り切りの生活のコモンは経理部での不便さに辟易していた。
 部下になったミワの脳波信号がオックス達の指示系統を乱してしまうのだ。そんな訳あるかとコモンも思っていたのだが、実際に配属初日、ミワに近づいたオックス、お掃除くん一号が動かなくなってしまったのだ。コモンも備品を何個も破壊されるよりはましだと泣く泣くオックス達の電源を落とすことになったのだ。
 コーヒーの良い香りがする。目を閉じ、匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「うぉ!」
 目を開けるとコーヒーサーバーの上に巨大な蜘蛛がいた。八つの目が機械音を上げているので、コモンはすぐに我に返る。
「アラクネか~。こんなところでどうした?」
 蜘蛛型ネクロボット、イドモナラクネ。通称アラクネ。実用性の割に忌み嫌われている存在だった。半死半生の虫をサイボーグ化したロボットで、アラクネは蜘蛛のネクロボットだ。
 足を鳴らし、イドモナラクネはコモンの側へやってきた。よく見ると、太い蜘蛛の生身の足に機械の足が義足のように取り付けられているのがわかる。
 アラクネはキャビネットの下を覗き込むと、隙間に太い糸を吐いた。糸を手繰り寄せるとくしゃくしゃの紙が絡みついている。
「ここにあったのか!」
 コモンが探していた書類だ。粘着力の高い糸でベトベトだ。
「ありがとな。でもこれじゃ作り直しだ」
 とコモンは礼を言いつつも苦笑する。アラクネは褒めてとばかりにコモンの肩に飛び乗った。
「痛った! 肩脱臼しそうなんだけど」
 四キロほどの重みだ。コモンはアラクネを睨む。
「両手に乗るくらいのサイズの癖に重たいよな、お前」
「あら。レディに対して失礼よ。ね。アラクネちゃん」
 いつの間にかミワがクッキー片手に近づいてきた。アラクネはミワの影響を受けないロボットだった。自立型人工知能だからだろうか? それとも蜘蛛の生体情報を組み込んだロボットだからだろうか? 理由はコモンにはわからなかった。
 ミワはアラクネを撫でている。その手つきは娘を愛でる母親にも思えた。ミワとアラクネの間にはコモンにも見えない何かがあるような気がした。
 アラクネを連れてきたのはミワなのだから当然か。沸き上がる感情をコモンは押し殺した。
「ロボットにオスもメスもないでしょ」
「でも女の子っぽいじゃない。ね、アラクネちゃん」
 小首を傾げていたアラクネが突然、ゴミ箱の隙間に飛び込んだ。ふたりは顔を見合わせた。
「あの動きはヤバい。確実にいる」
「ええ。不味いです。虫の研究をしていましたけど……」
 早々にゴミ箱付近から立ち去り、互いのデスクの端からコモンとミワは顔を出す。イドモナラクネが動き回るのを見守った。
「どうしても生理的に受け付けないんですよね」
 ミワがしかめっ面で言った。コモンも頷く。
「俺も無理。生きたゴキブリのサイボーグがいるって論文読もうと思ったけど、画像で無理だった。叫んじゃったもん」
「しっ! その名前を出しちゃダメですよ!」
 なんで蜘蛛は大丈夫なのにあいつは無理なんだろう、とコモンはふと思った。大きな音はしなかった。ゴミ箱の隅から出てきたイドモナラクネは蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになった黒い長い触手を引き摺っていた。
 ミワとコモンは雄叫びを上げた。
 

「いや、うん。お前はよくやったよ……」
 イドモナラクネを虫かごに入れてコモンはいつものように家に連れ帰った。ゴキブリ退治の後、ミワはどうしても一日程、アラクネに触れないのだった。
 玄関ドアの明かりが自動で点灯した。部屋にはすでに香ばしくもスパイシーな香りが漂っていた。嬉しい気持ち半分。職場での出来事でげんなりな気持ち半分。コモンの空腹を感じ取ったオックス達が食事を用意する方を選んだらしい。
「やっぱり便利だよ。ありがとな」
 オックス達は喋るわけではない。表情を示す目や手足もない。それでもコモンは彼らに礼を言う。
 コモンはイドモナラクネをダイニングテーブルにそっと置いた。思わず頭を撫でる。鉄の感触。けれどどこか温かい気がした。
 椅子に座るころには平皿に盛られたペペロンチーノがアームから差し出された。自律走行式の配膳オックスだ。アラクネはお盆に飛び乗るとそのままキッチンに連れていかれた。
 フォークを持って口にパスタを半分加えたままコモンは嫌な予感を感じた。アラクネが何事もなくキッチンから戻ったので、溜息を吐く。
 食べ終わると、皿も配膳オックスに回収された。机には四角の掃除オックスが食べこぼしを感知して拭き掃除をしている。
 風呂に入りたいと思う前に、風呂が沸いたのを知らせる音がする。便利だ。そして怠惰。なんだろうこの感じ。
「過保護なお母さん……」
 風呂から上がるとドライヤーが勝手にあてられる。ソファに寝転がりながらコモンは呟く。
「その点、お前は子供みたいだな」
 キシャっと機械の擦れるなんとも言えない音がする。腹の上にアラクネが乗ってきた。円らな目がどことなく眠たそうに見えた。つんつんと額を叩くと、鬱陶しそうに前足で指を弾かれた。
 アラクネを持ってきたのはミワだった。入社早々に女性用トイレにゴキブリが出たというので、害虫駆除専門要員が必要だと主張したのだ。
 良くないよな、私物の持ち込みだし、とコモンは今更ながら思った。
「しかし、どこで売ってるんだ? 最近じゃ量販店でもネクロボットは売ってるけど」
 蜘蛛型はほとんど見かけない。イドモナラクネなんて随分な名前だし、特注だろうか?
 ミワとアラクネのことをぼんやり考えていると、オックスが端末を差し出した。彼女が書いた論文がずらっとリストアップされている。他にもいくつか彼女のインタビューや記事を表示される。
「蜘蛛学の天才だなんて言われてら。なんでこんな寂れたベンチャーに来たんだ?」
 コモンは実はミワに親近感を持っていた。コモンもかつて大学で真面目に情報工学を研究していた。論文だっていくつか出した。けれども、院生のある時期からコモンはロボティクスの発展を素直に信じられなくなり学ぶことを辞めたのだ。
「ミワさん凄いな。新種の蜘蛛を何匹も発見してるのか」
 コモンがぼんやりリストを眺めてると、ある論文が目に止まった。idmonarachneの文字があったのだ。イドモナラクネ・ブラシエリの復元に関する論文のようだ。
 オックスはイドモーンの娘アラクネについての記事を表示した。イドモナラクネの由来になったギリシア神話だ。アラクネは神の怒りを買い、死んだ機織りの名手で、オウィディウスの『変身物語』によると、死後、蜘蛛に姿を変えたらしい。
「アラクネ。お前、前世は人間の女の子だってよ」
 腹の上で足を伸ばしてくつろぐアラクネにコモンは話しかける。アックスが『変身物語』のオーディオブックの購入を勧めるので、コモンは勧めにしたがった。
「明日聞いてみるか」
 『変身物語』に耳を傾けながらコモンはそのまま眠ってしまった。

「ちょっと聞きたいことがあってさ」
 タイピングの手を止めてミワが怪訝そうにコモンを見上げた。アラクネは丸めた紙を転がして遊んでいる。索敵対象がいない証拠だ。コモンは書き損じを丸め、アラクネにふたつめのボールを渡した。
「昨日、君の論文を読んだよ」
 タイトルだけだけど、と伝えると、
「なぜです?」
 きりっとした目に見つめらた。視線の強さにコモンはしどろもどろになった。
「いや、蜘蛛の研究してたみたいだし、それにイドモナラクネをここに連れてきたのは君だ。それで唐突に興味が湧いて……」
「ネクロボットの中でも性能が良かったんですよ」
 ミワの微笑は何かを隠すようでもあった。
「どこから? 一般発売はされていないみたいだけど」
「とある筋からです」
 声がどんどん硬くなっていく。コモンは別の切り口を探した。
「わかった。じゃあ、君の論文の中にあったイドモナラクネってさ」
 完全に作業の手を止めたミワは数秒沈黙した。窓の外からアブラゼミの声と子供の笑い声が響く。
「あのさ。遠慮なく言っていいよ。上司と部下って言っても同い年だし」
「では単刀直入に」
 コモンの額には汗がにじんでいる。それほどミワの表情には気迫があった。
「アヤト・マキシマ教授をご存知ですよね」
 突然の話題転換にコモンは面食らう。
「え。そりゃ指導教官だったし」
 しかも随分と懐かしい名前だ。アヤト・マキシマ。情報工学だけでなく、機械工学でも一流の研究者。院生時代、何かと目をかけてくれた。行き詰まりを感じたコモンに経理の勉強を勧めたのも彼だった。
「あの人、私の叔父さまなんです。あなたの話をよく聞いていました」
「まじですか」
「マジです」
 冷や汗が噴き出る。コモンは恐る恐る尋ねた。
「きょ、教授はなんて? その僕のこと……」
「優秀。人間がロボット同じだって解っていた唯一の学生」
 コモンはびくっとした。マキシマ教授にその考えを伝えたことはないからだ。
「ロボットに心があるように見せることは出来る。けれども、心はロボットに実装出来ない。むしろ人間に心があるなんてことがそもそも怪しいのだから。人間は所詮、入力されたことを出力するに過ぎない。出力の回路が人それぞれ違う形でプログラムされているだけだ。人間こそが実は最高のロボットなのだ」
 淡々とした口調のミワはそれ故に恩師にそっくりに見えた。マキシマ教授は熱のないぼんやりとした目で世界を眺めながら、実に淡々と話す人だった。あらゆる記憶が脳裏に浮かび上がる。コモンは首を振って思い出を断ち切った。
「叔父さまはそんなことを言っていました」
 アラクネが天井から糸を垂らし、ふたりの間でぶらぶら揺れている。まるで会話に参加したいかのように。ミワはふと視線をアラクネに移すと、娘でも見るかのように柔らかい笑みを浮かべた。
「恐らくあなたが院を辞めた頃、私も研究で壁にぶつかっていました」
 ミワが目を伏せる。
「壁? どんな?」
 ふたりが話す間、アラクネは天井に糸を垂らしぶら下がっていた。静止しているのに飽きたのか、コモンとミワの間をブランコのように勢いをつけてスイングする。
「うわっ! 危なっ!」
「きゃっ!」
 ふたりは向かってくる鉄の塊に驚いて尻もちをついた。当たったらことだ。鼻の骨くらい折れるかもしれない。
「アラクネ! 自分の重さ考えろ!」
 コモンはまるで子供を叱る父親みたいな口ぶりの自分に気が付いた。ミワは尻もちをついたまま肩を震わせて笑っている。
「アラクネはかわいいね」
 目尻に涙を浮かべ、引き攣ったように笑うミワにコモンはさっきまで何を話していたか忘れてしまった。
 糸を切ったアラクネがミワに近寄る。スカートから除く大股の間に挟まって前足を持ち上げる。つい視線がそちらに行ってしまいコモンは慌てて後ろを向いた。
「見てないからね!」
「大丈夫です。ラブコメじゃないんだから」
 冷静な声だった。コモンはそうだよね、と半笑いで言った。

 月次が終わり、ふたりは息をついた。人工知能が殆ど自動で作業してくれると言っても、まだまだ人間がやることはたくさんある。
「今更、気が付いちゃったんです……」
 ミワが郵送された請求書を差し出す。
「これ適格請求書番号記載されてないです」
「あ~、これ駐車場代?」
 営業職の為の駐車場の請求書だ。
「関西のおっちゃんって何であんなに柄悪いんだろうね」
 音声通信を伝送する。四コール鳴っても出ない。コモンは溜息を吐く。アラクネは飛んできた謎の羽虫を捕まえる為ぴょんぴょんと飛び回る。ミワが申し訳なさそうな表情でコモンを見た。いいよ、気にしないで、とコモンはジェスチャーする。
『なんだよ』
 ぶっきら棒どころではない。不機嫌そうな男の声にコモンは少し硬い声で用件を伝えた。
『知らねぇよ。オックスが出したんだ。そいつに聞け』
 ガシャ切り。固定電話ではないのでそんな音はしないけれど、そんな調子だった。
「請求書発行専門のオックスのアップデート怠ったのはお前だろうが……」
 コモンは唇を震わせる。あの手の人間と粘り強く交渉するのは結局人間なのだ。オックスが肩代わりしてくれる訳ではない。
「めんどくせー」
 思わず言うと虫退治が済んで満足げなアラクネがコモンの頭にちょこんと座った。
「その仕事、責任もって私がやります。すみません。頼んでしまって」
「いや、やめときなよ」
 女性に強く出るタイプの人間は未だに存在する。通話対応が嫌なら通信用オックス買えばいいのにとコモンは再び溜息を吐く。
「いえ、頑張ります」
 ミワはあまり通話が得意ではない。社内の折衷ばかり任せていたのはコモンの優しさだった。しかし、確かに甘やかした側面もある。生物学の研究者が出会ったこともないような脳筋おじさんと会話させるのが忍びなかった。
 コモンは研究者の世間知らずな一面もよく知っていた。彼女がマキシマの姪っ子だと知って余計にそう思うようになった。
 マキシマは表情が乏しく、人を怖がらせたり、不快にさせたり自然としてしまう人だった。コモンが院生の頃は彼のサポートで様々な人とコミュニケーションを取ったものだ。
 思えば、コモンがある程度、一般企業に馴染めたのも彼のサポートをした経験のお陰なのかもしれない。
「……じゃあ、頑張ってみて」
「はい」
 緊張した様子でミワは音声通信を再開した。ミワだってもう三十代後半。新卒でも出来ることをいつまでもさせないのもおかしいよな。コモンはそう思いつつ、ミワが謝り通しなので、哀れにも思えた。
 いやいや、哀れって妙齢の女性相手にさ。コモンは定例会の資料をまとめながら思う。
「痛だだだ。アラクネ。額を叩くんじゃない」
 コモンの頭から弾みをつけてアラクネはミワのデスクに飛び移る。彼女の背中に這い寄ると肩からひょこっと顔を出した。
「はい。はい。おっしゃる通りです。申し訳ございません。よろしくお願いいたします」
 顔を赤くさせ、半泣きのミワが通話を終えた。
「お疲れ様です」
「怖いおじさんでした……。世の中は叔父さまのような紳士ばかりではないのですね」
「教授みたいな人の方が稀だよ」
 コモンは立ち上がる。
「何か飲む?」
「ではお紅茶を」
 ミワも一緒に立ち上がった。アラクネもそのまま付いてくる。少し震えているようにも見えた。部下の成長を喜んだ。
 コモンの手は自然とニルギリの缶に伸びていた。
「すごい。よく私がそれが好きってわかりましたね。オックスは紅茶缶を見比べて止まっちゃうから」
 南インドの最高の味わいと書かれた缶を掌で転がした。マキシマが好きだった茶葉を無意識に選んでいたのだ。
「マキシマ教授とは子供の時から知り合い?」
「え?」
 ミワが眉をひそめたのでコモンは弁解した。
「いや、教授もニルギリお好きだったからミワさんの影響なのか、それともミワさんが影響されたのか気になって」
 するとミワは目元を緩めた。
「きっと私のせいですね。彼はダージリンがお好きなんですよ。本当は」
「そっか」
 その一言に含まれる複雑なニュアンスはコモンにも説明し難いものだった。ミワとマキシマ教授の親密さに対する羨望か、それともミワに対する嫉妬か。コモンは院を離れたもう一つの理由を今更ながら意識した。
 マキシマ教授への親愛が強すぎて、このままでは駄目になると思ったのだ。もしかして自分はミワを知らぬ間にマキシマ教授の代わりにしていたのかもしれない。
 ミワはしっかりしているし、表情も豊かだ。けれどもコモンは、彼女のどこかにマキシマの気配を感じ取っていたのかもしれない。良くない事だ。コモンはお湯を注ぎながら思った。
「はい。今回の件でミワさんも頑張れるってわかったよ。僕の持ってる対人業務、少し持ってもらってもいいかな?」
 ぱっとミワは表情を明るくした。
「頑張ります」
 アラクネはミワの足元をくるくると糸を吐きながらまわる。
「片付け大変だからやめてね……」
 コモンは糸だらけになった床を見つめた。

 くだんのマキシマに再会したのはそれから一週間後のことだった。
 コモンは取引先に出向いた帰りにカフェに立ち寄った。路地裏にある古風なというより寂れてレンが作りのカフェで、内装も綺麗とは言い難かった。
 席に着くと、鞄が膨れているのに気が付いた。よく考えたらやたら重かった。もしかして、と財布やら資料やらをカフェテーブルに雑多に放る。
「アラクネ。なんでここにいるんだ……」
 鞄の底にアラクネが小さく丸まっていたのである。目をうるうるさせてコモンを見上げている。通信端末にはミワから三通ほど、アラクネが見当たらない旨の連絡が入っていた。
「ごめん。こっちについて来てた」
 通話を開始するとミワは心底ほっとした声で『そうですか』と言った。コモンが夕方にオフィスに戻ると言うと、ミワはそれまでに財務諸表終わらせておきますますと答え、ふたりは通話を切った。
 コモンは鞄の中身をボックス席の向こう側に置いた。落ち着いた頃、ウェイターオックスがお冷を持ってきた。注文は必要ない。先ほどのオックスがコモンの食べたいもの、ハンバーグランチ、を勝手に持ってくるからだ。
 アラクネうろうろと近くの観葉植物を観察していた。通路に出て、客に蹴られそうになったので、コモンは慌ててアラクネを捕まえる。じたばたと暴れるアラクネをあやすように抱きしめる。機械の身体に生えた微笑な毛がちくちくした。
「お前どうした? 落ち着かないな」
 虫の知らせか? と尋ねた時だった。男がコモンの方へつかつかと歩み寄ってきた。真っ白な前髪を真ん中分けにした老いた男だった。
「久しいね」
 声は見た目の割に若々しかった。そして懐かしい音色だった。
「マキシマ教授?」
 記憶よりも随分老け込んだ姿にコモンは口をあんぐり開けた。マキシマはコモンが学生だった頃、三十代で最年少教授になった男だ。あれから十年は経っているが、まだ老け込むには早い年齢に思えた。
「相席してもいいかな」
 断る理由はなかった。
「お久しぶりです。ちょうど、あなたの話をしたんですよ」
「ミワくんとだね。仕事を渡したんだってね。彼女、君が期待してくれたと喜んでいたよ」
 のっぺりとした表情で淡々とマキシマは言った。紅茶とプレーンスコーンが運ばれてきた。コモンは少し焦りながらハンバーグを口に詰め込む。マキシマは紅茶がくるまで無言で窓の外を眺めている。日差しが白い髪に反射した。
「ここの紅茶が旨いんだ」
「そうなんですか。初めて来たので」
 ティーカップに蒸らした紅茶を注ぐと、二、三くち飲んだ。あれはニルギリだろうか、ダージリンだろうか。コモンは質問したいのを無意識に抑え込んだ。アラクネはいつの間にか鞄から身を乗り出し、テーブルに移動した。
 興味津々にカップに近づくと、マキシマの紅茶の水面をアラクネは突いた。
「あ! すみません」
「いや、構わないよ」
 嫌悪も驚きもマキシマの表情にはなかった。アラクネは、紅茶に波紋を作って遊んでいる。前足を深く突っ込みすぎて飛び上がる。熱かっただろうか、とコモンは思った。今度は、マキシマの指をに糸を吐きだす。マキシマは何事もなかったかのようにアラクネが突いた紅茶を飲み込んだ。
「実に愛らしいね」
 コモンは咽て、胸を叩いた。
「なんだい?」
「いえ……」
 教授に愛らしいとか思う心があったんだ、とコモンは驚いたのだった。マキシマは左上の虚空を見つめた。彼が講義を始める合図だ。コモンは懐かしく思った。
「先日、ある僧侶と話してね。彼によると人間は自分に心があると強固に思うようプログラムされていらしいんだ」
 前置きもなしに突然話始めるマキシマ教授にコモンは心が学生時代に戻った気がした。
「心があると思うから自分が感情的になったことに意味を見出そうとする。本当は反実仮想による推論の結果でしかないのに。君は随分、自分をさらけ出すけれど、結局は他人は他人なりのプログラムに従って自分の言う事、やる事を受け取るだけだと知っている。『どう受け取られるか』なんて気遣いは無用なんだ」
 スコーンにクロテットクリームを塗りたくり、表面を真っ白にしてから口に入れた。
「君と話していると心が落ち着くんだ。気遣い無用だからね。ロボットもそうだった。だから私がロボティクスに進んだんだ」
「今は落ち着かないんですか? 随分とやつれていますけど」
 コモンはマキシマの皴の増えた指先に視線を送った。
「結局ね、人間が求める最高のインタフェースとは人間そのものなんだ。僕はいま、人型アンドロイドの開発に携わっている。けれどもその行き着く先、どん詰まりをね、体感しているよ」
 クリームのついた親指を舐める。
「開発チームをまとめる時にね。怒ることが必要になってくる。でも私にはその意義が分からない。空腹になるしエネルギーも使うし不毛だよ。僕はきっと人間としての初期プログラミングに失敗した人間なんじゃないかと思うんだよ」
 コモンは胸を槍で突かれたように感じた。ふと目の前を蚊が通り過ぎた。アラクネは素早く動くと蚊を糸で捕捉した。くしゃくしゃと蚊を糸玉に変えたアラクネはコモンの目の前に置いた。コモンは思わずアラクネの頭を撫でる。
「このロボットがこんなに人間っぽくなったのを僕は失望すればいいのか、喜べばいいのか分からない」
 目を細め、マキシマが言う。
「反実仮想はロボットにとって重要な技術だ。ただ、人間の想像する反実仮想とは少し違うだね。人間はもし、なになにだったら、の後に必ずなになにだったのに、と付け加えてしまう」
「けれどもその分岐した未来への想像力も欲望も刺激に対する反応でしかないのに?」
 コモンが言うと、マキシマは小さく頷いた。
「君はそう思う。私もそう思っていた」
「いまは違うんですか」
「どうかな。私はこうだったのにと想像することがあるよ。もし僕がもっとミワくんに寄り添えたならと」
 コモンは身を引いた。ミワとマキシマの関係が眩しかった。
「ネクロボットを先生はあまり評価していなかったように思います。少なくとも僕がいた頃は」
「ああ」
 賑わっていた店内が静まり返った気がした。アラクネの関節の動く音だけが嫌に大きく聞こえた。
「ミワくんに頼まれなかったら作らなかったよ。でもね。可哀そうに思えた。可哀そうだと他人に対してはじめて思った。はじめての体験を大切にしたかった」
 マキシマはアラクネを手招きした。とてとてと音でもなりそうな軽いステップでアラクネはマキシマの掌に乗った。
「アラクネの元はイドモナラクネ・メタモルポーセス。それはミワくんの創作物だ。天然の蛛形類ではないんだ」
 コモンは息を飲んだ。
「イドモアナラクネ・ブラシエリの復元体というのが正しいかもしれない。三億年前に滅んだ蜘蛛だ。ブラシエリは出糸突起がない。だから糸を吐く事は出来ても巣を上手く作れない。故に絶滅したと考えられている」
 マキシマの口調は平坦だった。
「人工蜘蛛だったイドモナラクネ・メタモルポーセスの寿命は短い。それを差し引いてもすぐに死んでしまった。哀れだったよ。それで私が機械の身体を与えた」
 スコーンの最後のひとかけらを食べ終えると彼は丁寧にお手拭きで手を拭う。
「マッドサイエンティストだよ。あの子は。蜘蛛の世界に行きたがっていた。だから研究を辞めさせた。正解だったみたいだ」
 マキシマはそれだけ言うと、黙って伝票を持ち去った。コモンが反応出来るようになったのはカフェの扉の鈴と共にマキシマが退出してからだった。
 コモンは泣いていた。
 寂寥。
 むやみやたらと寂しかった。
 アラクネはぼとぼとと落ちる雫を不思議そうに見た。
『君は研究を辞めた方がいい。為にならないから』
 悩んでいたコモンへマキシマが唯一かけた心の籠った言葉はこれだった。マキシマはミワの為にコモンを一般企業に勤めさせたのかもしれない。コモンはそう思った。
 

「アラクネ。だめですよ。勝手について行っちゃ」
 コモンがアラクネと共にオフィスに戻るとミワは駆け寄ってきた。鞄から飛び出ると、ミワの腕にしがみつく。まるで親と再会した子供。いや、実際にそうなんだ。
「メンテナンスしなくちゃ」
 ミワはアラクネの生体部分が乾燥しないように培養液を注入した。びくびくっと肢体を震わせたアラクネ。コモンはその様子をじっと見つめた。
 動物の本能を利用して様々な事を可能にする。それがネクロボットだ。蜘蛛の本能は人間にとっての害虫を捕まえること。でも死んだ蜘蛛は捕まえた虫を食べない。アラクネはなんの為に虫を捕まえているんだろう。
 研究者は研究対象を擬人化してはいけない。蜘蛛の生態を知ることは出来ても、思考なんて人間にわかる訳もない。ましてやアラクネは生物としては死んでいるんだ。
 それなのにどうしてこうも生き物っぽいのだろう?
「終わったよ。アラクネ」
 ミワが間接の動きを確認する。コモンはアラクネの動きが前より悪くなっているのに気がついた。『生き残る』ことが動物の本能だ。死んだアラクネにとって生き残るとはなんだろう? もしかして、アラクネに人間みがあるのは何か理由があるのではないか? コモンはマキシマを思い出した。彼はコモンに何かミワの為にやって欲しいことでもあったのではないか?
 答えは纏まらない。それでもコモンはミワに歩み寄る。
「ミワさん。ひとつ聞いていい?」
「どうぞ」
 首を傾げながらミワは頷く。
「どうして研究やめちゃったの?」
 ミワはしゃがみ込んでアラクネを撫でたまま静かに言った。
「壁にぶち当たったって言いましたよね」
「うん」
 ミワは表情は前髪で見えなかった。 
「蜘蛛の生態をいくら研究したって蜘蛛になれるわけではないとわかったんです」
 コモンも視線を合わせようとしゃがみこむ。
「そう思ったのはなぜ?」
 アラクネはコモンの脛をかりかりとひっかいた。ミワが顔を上げた。涙はなく、のっぺりとした顔だった。それはマキシマに少し似ていた。
「私、蜘蛛の世界を見てきたんです。コモンさんはユクスキュルって人を知っていますか?」
「いや……」
「すべての生物はその種が持つ独自の知覚を用いて世界を認識しているというものです。私はイドモナラクネ・メタモルポーセスを使ってその世界を見ました。その代償に、一匹のイドモナラクネ・メタモルポーセスが死にかけてしまった。あれ以来、私はオックスから拒絶されるようになりました」
「そっか」
 コモンはアラクネを両手で優しく持ち上げる。
「後悔してる?」
 ミワは答えない。
「あのさ。遠慮なく言っていいよ。上司と部下って言っても同い年だし」
 数日前も同じやりとりをしたなとコモンは思った。ミワは引き結んでいた唇を解き、では単刀直入に、と言った。
「後悔はないんです。蜘蛛の子を、自分の子を殺しかけた癖に」
「そっか」
 コモンは彼女にプログラムされた思考回路を哀れに感じた。そう思う自分が高慢だとも思った。
「どんな世界だった?」
「覚えていないんです。いえ、正確に言えば、言葉に言い表せない。何か見たのに何も出てこないんです」
 コモンは人間の子供みたいにじたばたしながら撫でられているアラクネと無表情になったミワを見比べた。
 もしかしたらアラクネとミワはその時に融合してしまったのかもしれない。アラクネの一部がミワに、ミワの一部がアラクネに。オックス達はそれに気が付いていたのかもしれない。
「ちょっと羨ましいな」
 コモンはマキシマと話した時と同じ寂しさを感じた。
 そうか。仲間はずれにされた気がしたんだ、とコモンは腑に落ちた。マキシマとミワ、ミワとアラクネ。その関係性の間に自分はいない。
 手の甲がじんわり痛んだ。
「アラクネ。噛まないで~。めちゃめちゃ痛いんですけど」
 コモンはついいつもの調子で口を開いた。
「前から思っていましたが、コモンさんとアラクネちゃんと仲良すぎませんか?」
 能面のようだった表情が、途端にやきもち焼きの少女のように変化した。コモンは僕のセリフだよと思い、思わず笑った。
「アラクネ。君、ミワさんの事、好き?」
 アラクネがミワとコモンの間を行ったり来たりする。くるくると回ると糸を吐きだす。ふたりは降り注ぐ細い糸に埋もれた。
「僕たちは似ているのかも」
 努めて明るくコモンは言った。アラクネの糸が厚みを増した。まるで繭のようにふたりを包んだ。
「だめだよ。アラクネ。僕らを捕まえたら」
 コモンが言うと、アラクネは動きを止めた。
「あのさ。もしかしてアラクネの世界でゴキブリ見ちゃったとかある?」
 ミワが呆気にとられる。コモンはねとねとした糸を突き破りながら続ける。
「だからゴキブリ苦手になっちゃったのかなって」
「どうでしょうか……」
 ミワは呆然としながら辛うじて言った。
「はは。そうだよね。さぁて、仕事に戻ろうか」
 コモンミワに背を向けデスクに戻る。ミワはアラクネをぎゅっと抱き締めたままぼんやりと虚空を見ていた。
 コモンの視線がふと窓の外に逸れた。一匹の蜘蛛が美しい巣を張っていた。糸の網目から青空と入道雲が覗いていた。

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