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明るいこと「だけ」が良いことなのか?

前向き。ポジティブ。明るいこと。物事の良い側面に注目する。それ自体は悪くないと思う。ただ、明るいこと「だけ」が正しくて良いことだ、という思考に陥ってはいないだろうか。

「タフ」「打たれ強い」ということに対しても、同じことが言えるかもしれない。他にも「行動が早い」「活動的」など。

そこまで広げるとちょっと散漫になるので、今回は「明るさ」「前向きさ」ということに焦点を絞ってみる。

物事は多面的だ。ひとつの事象が、取る立場、見る角度によって、まったく違ったものに見える。

たとえば今回の新型ウィルス感染症の一連のこと。もう散々言われているが、人間の社会からすれば経済活動の低迷や感染リスク対策をはじめとした生活環境の強制的な変化など、デメリットのほうが目立つ。当事者になった人にとっては、苦しみが大きいだろう。しかし、工場が停止したり移動が減ったことにより、大気汚染が改善したりと、地球環境の面で見ればメリットが大きい。

もちろん人間社会でも、リモートワークをする会社が増え、それが性に合っている人にとっては非常にありがたいきっかけだったと思う。HSPである私にとっては、外出自粛により街を出歩く人が減ったことや、ソーシャルディスタンス確保が叫ばれたことにより、人同士の距離が開いたことが何よりありがたかった。また、今回のことで色々なことを考えるきっかけになったという人は多かったはずだ。

そんな風に、ひとつの物事にもとにかくいろいろな側面がある。

それでも、良い方に着目しようと言う考え方、苦境でも楽観的でいられるおおらかさ。素晴らしいことだ。ただ、本当にそうあるにはまず、自分の中で「これでいい」という確固たる軸、あるいは安心感が必要だ。

そして、苦境で笑っていられる人というのは、どうしても格好良く見える。その感覚が理解できない人間からすればなおさらだ。だからそれに憧れるあまり、称賛するあまり、苦境における楽観視を、不安から目を背ける言い訳に使っているという人も、少なからずいるのではないだろうか。

私は、もともと振り幅が非常に大きい人間だ。気分の浮き沈みが激しく、重症化し、双極性障害と診断されていたこともある。だから自分のそういう気質をどうにかしたくて、色々とやってきた。

どうしようもなく後ろ向きで、暗くて、死ぬことばかり考えていることもあれば、おそろしく前向きに、未来に希望を見ることもあった。常に希望を見続けていられればいいのにと、理想を描いた。けれど、前向きであろうとすればするほど、後ろ向きな自分との落差が大きくなり、そういう自分に引き戻されるようにひどく落ち込んだ。また、遠くを見ようとするからこそ足元がおろそかになり、ひどい目に遭うこともあった。

ネガティブな自分のパターンを手放しきれないのは、いわゆるホメオスタシスだ、と思っていた。人は、肉体は、変化を恐れるものだ。習慣の変化、認知の修正、回復への道のりとはホメオスタシスとの戦いとも言える。だから、続けていればいつか、楽観的な自分の習慣が当たり前になっていく。そう思っていた。けれど、上手く行かなかった。

しかし最近ふとしたきっかけで、気分の浮き沈みがだいぶ緩やかなものになった。

涙ぐましい努力の結果、習慣が反転したのか。いや違う。

自分の中のネガティブな部分を、受け入れたのだ。ただそこにあることを赦した。向き合うのではなく、付き合うことにした。

しょっちゅう死にたくなることも、どれだけ手を差し伸べられても外界との接触を断ち自分の世界に閉じこもることも、己の価値をとことんまで卑下していじめ抜いてしまう自分も。

悪だとジャッジせず、ただ、そういう自分がいるということを赦した。

すると不思議と、心が安定したのだ。

落ちることがないわけじゃない。不安にならないわけじゃない。焦りもある。錯乱してしまうこともある。けれどそれを責めなくなった。それは、世間的には「病気の症状」「異常」であっても、私にとって「普通」なのだと思うようになった。

また、そういう自分の側面があるからこそ、また前を向ける、一度底を打てるからこそ、浮き上がる力が湧いてくる。嫉妬深さがあるからこそ、諦めない粘り強さに繋がっている。悪いと思っていた「暗い自分」の、「良い側面」に気づくことができた。

私は価値観の軸に「陰陽説」を据えている。物事は陰と陽で成り立っているという考え方だ。そして、万物は照応している。世界が陰と陽で成り立っているなら、わたしたち一人ひとりの中にも陰と陽が存在するのだと。

ものすごく平たく言うなら、昼と夜がめぐることと同じだ。

昼と夜は交互にやってくる。昼間、活動したなら夜は眠る。朝日とともにまた動き出すためのエネルギーを充電するためだ。

つまり昼を前向きさと捉えるなら、後ろ向きでネガティブな側面は夜。

そう考えると、人間は動き続けることなどできない、常に前向きであることなどできないのだとわかる。私がずっと前向きであろうとすればするほどつまづき、行き詰まっていったのは、至極当たり前のことだった。自らの陰を否定していたからだ。眠るべき時に眠らないのだから、当然不調にもなる。

ところでこれは個人的な話だが、社会全体にも通じると思う。

物理的にも、精神的にも。「明るさ」を良しとする思考がちょっと強すぎやしないかと。

「光害」という言葉がある。

光害(こうがい、ひかりがい、英: light pollution)とは、過剰または不要な光による公害のことである。夜空が明るくなり、天体観測に障害を及ぼしたり、生態系を混乱させたり、あるいはエネルギーの浪費の一因になるというように、様々な影響がある。光害は、夜間も経済活動が活発な都市化され、人口が密集したアメリカ、ヨーロッパ、日本などで特に深刻である。(
Wikipediaより)

日本の都市は明るすぎる。夜の航空写真はとてもきれいだが、たとえば深夜の新宿など「眠らぬ街」という言葉どおり、本当にそこらじゅうLEDだらけで目が痛くなる。正直、昼間よりもドギツい灯りだ。夏場、街路樹から眠れずに興奮した鳥の声が聞こえてくることなどもよくある。

この光害の生み出す歪み。娯楽が溢れ、楽しむ事を賞賛し、ネガティブ感情や陰鬱としたものを否定しがちな現代社会の雰囲気的にも通じるものがあるのではないだろうか。

日本は特に、敗戦後に国を立て直すために、社会を明るくしようという動きがあったからなのかもしれない。今でこそ電球色のインテリアや間接照明が好まれるが、昭和中期では「蛍光灯の白い光」こそが富の象徴であったという。

明るいことこそ是、富は多ければ多いほどよい。よく働き、よく稼ぐ。楽しいことこそ至高。そのような価値観の影で「陰鬱さ」のようなものはずっと否定されてきた。

陰と陽は一体だ。片方が強くなれば、相対的にもう片方も強くなる。

敗戦の痛みを乗り越えるための希望はいずれ、築き上げた富への強迫観念と執着となる。しかし、多くの人はそこに目を向けなかった。不安から目をそらし、既得権益を守ることばかりした。

先を生きる世代が目を背け排斥された陰は、今を生きる世代が担うことになる。要するに、社会問題として噴出するのだ。社会の歪みとして。現代人の病質として。

ここ数年、メンタルヘルスは一部の精神疾患患者のものではなく、社会に生きる誰もにとって、当たり前に身近にあるものになりつつある。「ストレス」という言葉は子供にとっても身近なものになった。

また、ビジネスではガツガツした姿勢が評価される雰囲気が未だに色濃いところもあるが、「内向型を強みに」という言葉を目にする機会も増えてきた。繊細な性質を持つHSPという気質の認知が広まってきていることも、その流れのひとつだと思う。

もうおそらく多くの人が陽一辺倒、「明るさ」「前向きさ」を良しとする雰囲気に疲れてきているのではないだろうか。

そんな状況があるにもかかわらず「明るく前向きに」を過剰にうたう人々は、ある意味思考停止しているか、思考停止させて自分の言い分に従わせようとしているように思えてならない。

なぜそう思うかといえば、かつての私自身がそうだったからだ。

もちろん、本当の意味で苦境において楽観的でいられる人もいる。しかしそういう人ほど、苦しい状況に陥っている人には「明るく前向きに」と声をかけたりしないように思う。


陰を見つめる、夜に浸ることのメリットとして、「明るいときには見えないものが見える」というのはあると思う。

たとえば、真っ暗になれば、空には星が見える。心の声にじっと耳を澄ますように、暗く湧き上がる感情を見つめることで、その奥にある大切な想いに気付くことができるかもしれない。

あるいは薄闇。光が弱まることで、影に隠れていたものの存在が浮かび上がることもあるだろう。忘れていたものを思い出すかも知れない。

また陽は動、陰は静と捉えることもできる。動き続けていては見過ごすものも、立ち止まることで目に入る。気付くことがある。

暗がりを手探りで歩いた過程が、誰かの道標になることも。

暗く落ち込むことは、悪いことばかりではない。

しかし大抵の人はこの「暗さ」に耐えられず目を背けてしまう。心の奥にあるもの、浮かび上がってくるものが、見たいものとは限らないからだ。未知の感情は、たとえ自分のものであっても怖いだろう。なんなら、見たくないものがあるから動き続けているという場合もある。

「明るさ」が是とされてきたこれまでの価値観では、「元気さ」が強さだとされてきたが、私は病めることも強さだと思う。持て余すほどのネガティブさにとらわれるということはつまり、その「暗さ」にとどまれる、出てきたものを受け止めるだけのタフさがあるということだ。

「暗い性格」「病気」だと否定せずに、どうかそれを自分の大事な性質だと思って、そこにとどまってみてほしい。見える景色、浮かび上がる気持ち、感じられるものがあるはずだ。

真っ暗な空に見えるきれいな星も、実際は宇宙の塵やゴミだったりする。何事も捉え方次第だ。どんなものが出てきても、それはあなたにとって今まみえる必要があるからそこにあり、相応の歪さがあり、また同時に美しさがある。

物事は多面的で、世の中のあらゆるものは照応している。つまり人間も多面的な存在なのだ。「どんな自分でもいい」と思えたなら、未知の感情も怖くはない。

この記事を通して、「明るさ」「前向きさ」を否定したいわけではない。どちらかが正しいとする考え方が歪だということが言いたかったのだ。どちらもあるのが自然な姿で、どちらも受け入れることが大切なのだということ。

今は時代の転換期。今年は特に大きな節目の年だ。これまでのやり方は通用しなくなる。「社会(あるいは世間)がこうだから」という常識が崩れつつある今、「自分は何者なのか」「自分はどうしたいのか」ということが大切になってくる。

だからこそ立ち止まり、「暗い」「ネガティブ」と否定されがちな「陰」の部分を見つめることが必要だ。そして明るさも暗さも、フラットに受け容れることで、自分の本当の声に耳を傾けることができるようになって行くのではないだろうか。


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