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「気にしてないよ」と言わないようにする

パジャマのズボンが破れてしまった。

最近太ってしまったし、伸びない素材だったし、あと結構ヘビロテしていたので負担がかかっていたのもあると思う。ふとした拍子にもう履けないレベルにビリビリと裂けてしまった。

特に気に入っていたものではないので、どちらかというと太ったショックのほうが大きくて落ち込んだ。

その様子を見ていた夫が「明日おれが帰ってきたら一緒に買いに行こう」と言ってくれて、私は「まあ、いつでもいいかな」と思っていたので、逆にそんなに必死に考えてくれるのかと少し嬉しかった。(自分ごとなのにすぐ動かないのはセルフネグレクトですね……)

ただ、その「明日」という日は夫にとって大事な日でもあって。端的に言うと習い事なのだけど、その習い事は担当の先生が複数いる。その日は夫が大好きな先生の日で、その先生は業界内では有名な人でもあるので、先生にアピールするチャンスでもあった。

クラスがいくつかあるので、夫のクラスのレッスンが終わればそのあとは別のクラスに入れ替わる。しかしその日、「他のクラスのときも見学してていいよと誘われた」と、私にメールしてきた。

それがだいたい昼頃。最近死ぬほど眠くて、夫が習い事に行っている間もずっと寝ていた。メールで起こされて、「うん、がんばっておいで」と寝ぼけながら返して、そのまままた寝た。その瞬間は、私自身もパジャマを買いに行くというタスクを忘れていた。

そしてすっかり寝こけてしまって、起きたら夜の7時だった。本来は3時頃に帰ってくる予定だったのだからかなり遅い。思っていたよりずっと遅くて心配になってメールしたとき、はたと「そういえばパジャマ買いに行くって話だったのに」と思い出した。

私も忘れてたし、実は夫も寝不足で頭が回っていなかったので、忘れてしまうのは仕方ないと思う。けれどなんだか、心の内側にすごく悲しい気持ちがぐるぐるしはじめてしまった。「忘れられてた」「悲しい」「私が一番じゃないの?」という言葉があがってきた。

とりあえず「パジャマは、今日は無理だね」「忘れちゃってた?」と送ると、「あっ……」と返ってきた。
「私も起きてから気付いたし」「先生とのレッスンは今日だけだし」相手が悪いわけじゃない。だからいつもなら「気にしてないよ」と言うところで、心がちくりと痛んで、メールを打つ手が止まってしまった。

「気にてないよ」は、本音じゃないな、と。

最終的に「悲しくないわけじゃないから帰ったら何か言うかもしれないけど、でも、レッスン楽しめたならよかった」……とよくわからないメールになってしまった。

結局帰ってきてから夫には、こういう気持ちが出てきたとそのまま伝えた。夫は素直に「ごめんね」と言ってくれたけど、自分の気持ちを我慢しているようにも思えたので、「私はあなたにただ謝ってほしいわけじゃなくて、言いたいことを言っただけだし、あなたもちゃんと自分の言いたい事言って」と言った。お互いに言い合ってその日はスッキリした。

もちろん大人なので、事情はいくらでも理解できる。夫のチャンスと、パジャマを買いに行く事を天秤にかければ、どちらを優先すべきかなんて明らかだ。チャンスは逃げるがパジャマは逃げない。

人間だから忘れることもあるし、寝不足だったのならなおさら。けれど、約束に期待して、それが裏切られた悲しみは湧き上がってきてしまったのも、私の本当の気持ち。

今回はお互いに信頼関係があったので直接言葉にしたけれど、どうしても言えない状況だったとしても、自分だけはその気持を否定しないでいる事が必要だと思う。それが子供みたいにわがままな感情だったとしても、それ自体に善悪はない。

「理性と感情は分けろ」と言うと「感情を抑えて理性的に考えろ」という意味だと思われがちだけど、そうじゃない。「頭で事実を理解する事」と「湧き上がった感情を認める事」の両方を文字通りそれぞれ切り離して考えるという事だ。

感情で起きてしまった物事を変える事はできはないけど、事実があるからといって感情を否定する理由にもならない。けれどどちらかだけではダメで、両方見る必要がある。その上でどう行動するかもまた分けて考える。

そして今社会に生きる人々はちょっと理性によりすぎというか、感情をないがしろにしすぎるきらいがあるので、ちょっと感情に意識を向ける必要があると思う。下手に抑えると、余計に自分や相手を傷付けてしまう。ストレスがたまる一番の原因でもある。

ちなみにパジャマはそのあと結局色々あってまだ買いに行っていない(早く買え)。

「気にしてないよ」と、本当はそう思っていないのに言ってしまうくせがずっとある。似たような言葉で「気にしないで」も、よく言う。

なぜそれを言ってしまうかと言えば多分「めんどくさいやつと思われたくない」「嫌われるのが怖い」「相手に責任を感じさせるのが申し訳ない」とか、あと「いい人だと思われたい」とか……まあ言葉はいくらでも出てくるのだけど要するに「不安」「恐怖」「罪悪感」から。

さらに言えば、以前は「本当はそう思っていないのに言っている」とすら気付かず、「私は気にしてない」と本気で思い込んでいた。多分「いい人」でいたかったんだと思う。

でも、最近は以前より自分の気持ちに敏感になったし、湧き上がった気持ちとどう付き合うかという事を考えるようになって、「結構自分はいろんなことを気にしてるし、根に持ってる」という事に気付いた。

それでも「気にしてないよ」と言うのは口癖みたいに染み付いてしまっていて、ついつい言ってしまっていた。

けれど今回、「気しないで」という言葉を言おうとして、胸がちくりと痛んだし、とてもモヤモヤした。「それは嘘だ」と自分で気付いてしまって、違和感を無視できなくなった。

そして同時に、いつもここで抑え込んでいたから、根に持ってしまっていた事にも気が付いた。感情は、抑圧するとずっと心の奥に残ってしまう。消えたり忘れたりしていても、感じられないほど奥底に隠されただけで、たしかにそれは存在し続けている。

けれど私は、自分の感情、とくに怒りや悲しみといった負の感情を相手に伝える事に極端に臆病な節がある。それは「迷惑な事」「相手を責める事」「罪悪感につけ込んで、相手をコントロールしようとする行為だ」と思っていた。実際そういうふうに糾弾された事もある。でも一番は、「感情を受け止めてもらえなかった」経験があとを引いている。

だからこそ溜め込みがちなのだけど、そういう過去の経験から来る恐怖心を取り払って、自分の感情を表に出せた方が、結果としてうまく回るのだと最近は気付き始めた。

本当はきっと、思った事はなんであれ素直に伝え合った方が、スッキリするし、風通しがよくなるんじゃないかと思う。感情のぶつけ合いやいさかいは正直苦手だけど、それが必ずしも嫌悪や離別に繋がるとは限らないのも事実。特に長く付き合う関係性ならなおさら、その場しのぎの我慢は、結局どこかで限界が来てしまう。

もちろん湧き上がってきた感情を認める事と、それを伝えるかどうかは別の話なので、いつでもどこでも感情ドッジボールをするのが正義と言いたいわけじゃない。

距離感の遠い他人や、ビジネスライクな付き合いなら、その場を穏便におさめるために、相手を許せなくても「お気になさらないでください」と言うのが必要な場面もある。

でも、私は今までそれをやり過ぎたと思う。

客観的に見れば「許さないほうがいい」と思えるような場面でも「気にしてないよ」という対処をしてばかりいたせいで、都合のいいやつと思われて付け込まれる事もあった。

逆に抑圧があまりにも強すぎて、やり返したいほどの怒りが沸き起こったときには、その自分の感情の大きさに自分で怯えて、持て余してしまい、結果、自分の中に溜め込んで、体調を崩していた。

いちおう少しずつ成長はしていて、これでも以前よりは感情を武器に変えて反撃できるようになってきたと思う。

たとえば、前のバイト先でセクハラを受けたとき「最低ですね」と言い返せたのだ。これでも自分的にはすごい進歩なので、褒めてくれるとうれしい。

ただ、その時、笑顔で言ってしまったのは今でも後悔している。「雰囲気を悪くしたくない」が先に立ってしまったのだ。真顔で言えばよかった。だって私は何も悪くないのだし。うう、もっとウィットに富んでいて、それでいて相手の背筋を凍らせる言い回しができるようになりたい……。

それでもやはり、何かミスや手違い、コミュニケーションの行き違いがあって傷ついたとき、場合によってはそのときに浮かんだ感情や、自分がしたい目的は、形を工夫して相手に伝えると、結果として関係性が深まったりとかする事もあるはずだ。

やはり自分に嘘を吐くよりは、言いたい事を言えた方がいいし、それがうまくいけば、きっと自分を正しく守る事ができるし、人付き合いが楽になると思う。

だからこれからは、心から言える時以外は、「気にしないでね」「気にしてないよ」はできるだけ言わないよう心がけたい。もし言いそうになったら、ちょっと止まって、自分の心に耳を傾けてみようと思うのだ。

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