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「個性的になりたい」という欲求をこじらせて、壊れて、その先に得たもの

元々、個性的な人やちょっと道を外れた人に惹かれるところがある。意図せずともたまたま知り合った相手がそういう人だったりすることも多い。

最近までそのことに全く自覚がなくて、「ヤバい人や変な人との繋がりなんて、言わないだけで誰でも多かれ少なかれあるもんじゃないの?」と思っていた。

けれど、どうやらそうではないらしい。これまでの人間関係の話を人にすると、ギョッとされる事もある。

「個性的な人に惹かれる」とは、良い面を取り上げれば、魅力ある人に囲まれる豊かな関係性と言える。

しかし実際、過去にはトラブルも多く、個性的で魅力的な人の中には、本当の意味で道を外れた人、私を平気で、それどころか楽しみながら傷付けてくる人などもいた。そして大体そういう関係は、ある程度親しくなってから発覚する。酷い時は、親しくなってからも傷付けられていることに気付かずに、ボロボロになるというパターンもあった。

よくサイコパスは魅力的に見えると言うが、似たような感じだ。

何故そんな人に惹かれてしまうのか。痛い目に遭う時、相手に近づく理由は決まって「この人に認められたい」だったように思う。

私は、心の奥底に「自分も個性的な人だと認められたい」という強い欲求があった。「個性」は「特別」とも言い換える事が出来る。

改めて言葉にするのはすごく恥ずかしいけれど、私はきっと特別な存在になりたかったし、自分を特別な存在だと思いたかった。

けれどそれと同じくらい、枠からはみ出て嫌われるのも怖かった。怖くて不安で、自信がないから「この特別な人に認められれば、私も特別になれる」と、そう思い込んでいた。

私が特別だと、誰かに証明して欲しかったのだ。そうすれば安心して枠をはみ出すことができる、そう思っていた。

人生には「取り組むべき課題」がある。人によってその内容は違うけれど、少なくともその課題は人にやらせる/やってもらうものではなく、自分自身が意志を持って取り組むべきもの。

それをやらないとどうなるか。あるいは他者に託しているとどうなるか。もちろん、上手くいかなくなる。どこかで行き詰まる。取りくまなくてもなんとなく生きていくことは出来るけど、どこか空虚、そういった人生になる。

それらの苦しみも、課題に気付くために大切なプロセスだけど「取り組むべきものに対する姿勢によって、起きる出来事が変わる」そういう性質は、確かにある。

そして、当時の私は自分の課題を他人にしてもらおうとしていたんだと思う。

その証拠に、特別性の証明を他人に求めれば求めるほど、個性どころか、自我がどんどん削れてなくなっていった。そして「自分は空っぽで、何者にもなれない」という焦燥感と空虚感に心を支配された。そして不安から更に人に求めて、見境がなくなって、自分を傷つけるような人に好き好んで近寄っていく。

もちろん、そんな中で特別だと認められた事は一度もなく、「君は普通だよ」と一蹴され。そして自分から目を背けているから、人からの好意的な評価も受け取れず。

そういう悪循環に、ハマってしまっていた。

私の取り組むべき課題は「自分の特別性」を「自分で」認めること。他の誰でもない、自分自身で。

もちろん、全ての人は生まれながらに特別とも言える。自身の特別性を認めるということと、それを知ることは鏡合わせだ。それは即ち「生まれながらに与えれたものを知る」ということ。

私は何者で、何ができて、何を与えられるのか。これを理解するということ。

幸い、悪循環は断ち切れた。ただし、「自ら断ち切ろうとしたからできた」なんてご立派な話ではない。単純に、自分を守っていた殻が粉々に砕け散ったから、結果的に断ち切らざるを得なかったに近い。

けれどそのことがあったおかげで、自分の個性を、自分で認める必要性に気付くことができた。

それから数年経った今、ようやく、自分の個性、特性を相対的に、客観的に捉えられるようになってきた。受け入れる過程で「見たくない自分」もいたけれど、それすらも自分自身なのだと受け入れた。

受け入れたところで、偏りも葛藤もなくならないけど、私が見たくなかった性質は、私が生きるために必要な武器でもあった。そしてそれが魅力にもなるのだと、薄々ではあるが思えている。

また、かつて悪循環だったものは、良循環に転じたように思う。

出会う人や惹かれる人は、相変わらずどこか個性的な人、偏りのある人が多い。そういう性質は、変えられないらしい。けれど最近は不思議と、変な人に引っかかって痛い目を見る事が以前より格段に減った。

ある程度嗅ぎ分けられるようになったし、自分から近寄らなくなった(今思えば、かつても見抜けてはいたのだと思う。薄々ヤバいと感じつつも、当時の私は自分の感覚を信じられなかったから、あえて飛び込んでしまっていた)。

今は、「特別だと認められたい」という欲求が、「既に特別である」という認識に変わったおかげで、内側の欲求を、自分と、自分が選んだ人たちに満たしてもらえるから、どうでもいい誰かに満たしてもらう必要がなくなったんだと思う。

もちろん、自分だけじゃない。全ての人が、生まれながらにもたらされたものがある。それは多くの場合、無自覚だし、一見して苦難や不運であることもよくあるため、認めることが難しい場合もあるけれど、それを認め、自覚することで能動的に使っていける。

「自分の人生を生きる」と心に誓えば、世界は大きく変わっていく。

時間はかかるし、辛いことを乗り越える必要もあるけれど。でも、辛いことを辛いときちんと感じられるからこそ、乗り越えた時の喜びを感じることもできる。

しかし、個性を伸ばす教育と謳いながら、役割に人を当て嵌める傾向が非常に強い今の日本社会では、本当の意味で「持って生まれたもの」に対する自覚をしにくい。それどころか、むしろ悪だとすら思われている節がある。優劣をつけられ、競争心と虚栄心を煽られ、個性が抑圧される社会。だからこそ「持って生まれたもの」が社会規範から外れた場合、自分を認められずに苦しむ。

私は、はなから社会になじめず、かといって突き抜ける事もできず、ずっと境界線のようなところで生きてきたから、今は常識に囚われずに物事を見つめられている気がする。

それに、どうやら私には人のうちにあるものを見抜く目があるらしい。それは先にも書いたやヤバい人を嗅ぎ分ける力にも通じる。変態に引っかかって痛い目を見ることで培われたというのは、微妙な気持ちでもあるけれど。笑

振る舞い次第で武器にも凶器にもなるそれを、これからは誰かの特別な輝きを見出していくことに使っていく。

そうすることで、生まれ持ったものを活かして、自分の人生を発展させていける人が、もっと増えていけばいいなと思う。

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