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3.11 東日本大震災の記憶と記録1


3.11 東日本大震災について
これまで話すことはあっても
書けずにいて
このまま時間と共に
記憶が薄れていく前に
我が家が体験したことの
記憶と記録を
ここに残しておきたいと思います。

いいタイトルが浮かばず
今は(仮)にしています。


2011.3.11

あの日、
薬局の勤務がそろそろ終わる頃
いつもは混み合う金曜日なのに
なぜか
患者さんがさーっと引いて
薬局内はめずらしく静か。

私はその日の薬歴の
入力作業を仕上げようとしていました。



当時、私は青森県八戸市に住んでいました。




突然
ガタガタと音を立てて揺れ出しました。

この辺りは地震多いので
赴任した当時はその度に
慌てたけれども
10年も住んでいると
正直
「あ、またか」程度の地震かと
慣れてきてしまっていた。
が、あの時は一向に揺れが
収まらなくて、
それどころか
どんどん強くなって
建物の揺らぎもぐらんぐらんと
大きくなりました。
パソコンの前で
入力作業をしていたけど、
椅子もが揺れに合わせて
大きく揺れる。
パソコンのモニターも
テーブルから落ち出し
なにより私たちも
しゃがみこむしかなくて

本能的に
テーブルの下に潜り込みました。


揺れの途中で
あちこちの電気が消えて

そして停電



強くて
長い長い揺れが収まって

「、、、すごい
揺れだったね、、、」

だけど

何が起こったのか
全くわかりません。

しばらくしてまた揺れた。
何度も繰り返し揺れる。


揺れが少しおさまったところで
急いで休憩室に
携帯を取りに行きました。


見てみると

着信履歴や
メールがたくさん

え、どういうことなの?

差し当たり
身内を探すと
お義母さんからの電話が入ってので
リダイヤルしたところ、

「大丈夫なの⁈
もうすぐ津波がくるって
ニュースで言ってるわよ!」

「津波⁈」

全く訳がわからない。
状況がわからない。
何が何だかさっぱりわからない。

また落ち着いたら
連絡することを伝えて電話を
早々に切ります。


停電でテレビは見れなかったけれど
スタッフの誰かが
DSでテレビをつけてくれました

大きな地震があって
しかも津波が来たとか来るとか⁈

ど、どういうこと?


取り急ぎ、
この時点で帰るように言われて
急いで、車で家に向かいました。


3月になって八戸にも
ようやく厳しい寒さも終わりが
見えてきて
日差しが柔らかくなっていた
日も少しは長くなってる
こんな春の兆しを心から喜んでいた。
そんな矢先に、です。

なのに、どうして?
何が起こったの?


夫から電話が入りました。
「大丈夫か?」

夫は辞令がでて
新しい赴任先に引き継ぎ他で
関西方面へ出張。
前日から留守にしていました。
予定では
翌日の土曜日に帰ってくることに
なっていたけど、、、

電話もなかなか繋がらなかったらしい。

取りあえず帰って
子供たちを迎えに行く
と伝えました。

このあと、電話がまったく
繋がらなくなったらしく
学校とは連絡が取れず、
でも、迎えにいかないといけない。
そう思いました。


とにかく帰らないと。

が、
途中、余震で何度も
ぐらんぐらんと揺れているのが
運転しながらも伝わってきます。

大きな交差点の信号機以外は
どれも黄色の点滅になっていて
お互い譲り合いながら
交差します。



どうにか
家に到着。
ご近所さんと少し話したあと、
家の中の様子を見て回りました。


食器棚からは半分くらいの
食器が落ちて割れてる。
破片が飛び散ってる。

2階に上がってみると
あの重いクローゼットの
扉が外れてる。
そして、
どの部屋もぐちゃぐちゃになっている。

ガス、水道は大丈夫。
暖房が使えないから
寒くなりそう。


とにかく今夜は下の
リビングで
3人眠れるように
まだ明るいうちに
布団の類を下に運びました。

停電で陽が落ちると
真っ暗になって
何もできないと思ったからです。


そして、近くの小学校に
息子(小5)を迎えに行きました。
この時、
街がやけに静かだったのを
とても妙に感じました。


娘(中1)は私の職場近くの中学に
スクールバスで通っていましたが
学校の指示で市バスに
乗るように言われたそう。
だけど、
そのバスは海に近い方を通るため、
津波の危険があるからと
途中で降りるようにいわれて
今、〇〇に居ると、連絡が入りました。

もうその頃は陽が落ちて
暗くなってきて、
また雪が舞っていました。


まずは小学校へ向かい、
先生と確認しあって息子を迎えた。
そしてそのまま
娘を迎えに。
電波の状況悪くて
途切れ途切れになりながらも
目印していた建物の前に
娘がいるのを見つけて
これで無事3人揃いました。


停電のため、いつもの街灯もなく
家々の明かりもない
車の通りも少なく
静かな静かな暗い夜でした。


帰ってからは
とりあえず、懐中電灯を照らし
夜中、いつでも飛び出せるように
玄関に食料など必要なもの
置いておきました。


問題は携帯のバッテリー。
母や友人からも連絡が入りますが
手短に状況を伝えるのが
精一杯。

DSをテレビ代わりにしようとしたけど
これももうすぐ充電が切れそう。


とにかく、
懐中電灯の灯りだけでは
何もできない。
寒いしもう布団に入って
寝ることしか他はなかった。
寝れるなら寝よう
とにかく朝が来るまで。

3月とはいえ
東北の気温はまだまだ低く
服を着たままダウンコートも着て
布団に、入りました。

果たして、
無事に朝を迎えられるのか、、、


そんな不安な気持ちの中、
一番心配だった息子が
あっという間に
寝息を立てていたことに
少し、安堵しました。



つづきます

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