《半可通信 Vol. 7》 人間には「人間事務取扱」の資格があるのか…?

 もはや死語と言ってもいいだろうか、「事務取扱」という肩書き用語がある。いや、あった。最近はおろか、自分の若い頃にすらもうあまり聞かなくなっていたように思う。会社などの役職のあとに「事務取扱」と付けて、たとえば「課長事務取扱」なら、この人は課長ではないのだが、課長のすべき職務を任されている、といった意味になる。今もある言い方なら「代理」とか「補」とかだろうか。でもそれらの言葉とは違って、「取扱」には、本当は偉い人がやるべきところを私は実質的に任されてるんだ、私こそが課長の「中の人」だ、むしろ私のほうが隅々まで把握してるぞ、みたいな矜持がそこはかとなく感じられて、なんとも味わい深い。

 ふと、こんな言葉を思い出したのには、いくつかの理由がある。それを無理やり手短にまとめるなら、人間ってそもそも自分たちの作り上げた社会システムを回すだけのスペックを持ってるんだろうか、と思う場面がいくつもあった、ということだ。人間って実は「人間事務取扱」すらままならないんじゃないか、と。

 一つの例は、「歩行者」ゆえの関心でもないのだけれど、都市の人混みだ。駅の通路などで、うまく人を避けて衝突せずにササッとすり抜けていく人はすごいと思うし、事故を避けるためにも見習いたいとは思う。でも、だ。みんながみんな、100%と言わないまでも、ほぼ全員がそういうスキルを身につけることってあるだろうか。これは絶対にないと思う。大体、求められているレベルが高すぎる。それに、誰だって怪我や病気や、歳を取ることで思うように機敏に動けなくなることはある。そういうことを考えると、都市でこういう混雑が恒常的に発生すること自体が、社会システムの設計ミスではないかと思えてくる。
 いま一つの例としては、エスカレーター。乗る人はさまざまななのに、常に一定のスピードで動くものにタイミングを合わせて乗れというのは、いかにも事故が起きやすいシステム設計だと思う。最近、製造元と設置者が、片側追い越しについて危険なのでやめさせるようキャンペーンを始めたが、確かに追い越しざまに鞄でも何でも引っ掛けたらすぐに大惨事につながる。利便性をリスクがはるかに上回っているのではないかとさえ感じる。
 こうしたことへの対応として、知識の普及とか、マナー意識の向上とかばかり言われているようなのだが、そもそもそれで解決するような気がしない。どんなに意識を向上させ行動を洗練させても、やはり誰にでも注意力がふっと途切れるときはあるし、急ぎの用があったりすれば自分優先で無理やり人と人の隙間を突っ切りがちになる。それが、人間のスペックではないのか。そのスペックでは回らない社会システムは、そもそも設計不備なのではないか。
 そうなると、なぜそういうシステムが構築され、当たり前のものとして運用されているのかという疑問が湧いてくる。ここは考察すると泥沼にはまるのでここでは深入りしないが、やはりそういうシステムから誰かが利益を得ているということは確実に言えると思う(よほど小規模で、惰性的に続いているだけのシステムなら別だが)。それは、意識的にそれらシステムの構築と維持を望んでいる場合もあるし、そこから利益を得ている構造に対して無意識・無頓着である場合もあるかもしれない。ともあれ、それが当たり前の環境になっているから当たり前だと考えるのではなく、システムは何らかの理由があって存続していると考えること、これがまずは大事なのだと思う。
 このトピックは、もしかしたら続きがあるかもしれないが、今日のところはこの辺で。

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