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【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回「いざ、鎌倉」

2022年2月27日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回「いざ、鎌倉」を視聴しました。

<始まる前に>

もうひとりの源氏大将、九郎判官義経登場のようです。
ほとんど史料が残っていない若き頃の義経、どう描かれるのでしょうか。
そして頼朝は念願の、河内源氏のゆかり深い鎌倉入りです。

<NHKのあらすじ>

挙兵した源頼朝(大泉洋)を討つため、追討軍を送る平清盛(松平健)。
後白河法皇(西田敏行)は地図を広げ、丹後局(鈴木京香)らと戦況を占う。
一方、奥州をたった源義経(菅田将暉)は、兄・頼朝との対面を夢見て歩みを進めていた。
そのころ坂東では、上総広常(佐藤浩市)らを加え勢いを増す頼朝が、鎌倉を目指して進軍。
頼朝の命を受けた北条義時(小栗旬)は、武田信義(八嶋智人)を味方に引き入れるため、再び甲斐へと向かう……

■プロローグ

伊豆山権現を抜け出し、民家に匿われています。
政子たちは鎌倉へ行くことに。

---曲---

エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)

反乱の炎は一気に坂東に燃え広がった。
大軍となった頼朝勢。
様々な思惑を抱えた巨大な寄せ集めが、今、鎌倉を目指す。

■隊列

義時が考えた隊列を組んで、出発した頼朝軍です。

■清盛入道

追討軍を組む平家ですが、1万では少ないと怒る清盛。
後白河法皇は頼朝が追討されるのを嫌がります。
頼朝を諦めたほうがいい進言する丹後局、弟たちはどこに居るのかわからないようです。

■義経登場

うさぎを捕まえる義経ですが、別のものが放った矢が落ちていました。
矢の飛ばし合いで決めようという義経は、飛ばし合いと見せかけて相手を矢で殺します。
鎌倉入のの前に富士登山に変更します。

■義時の心配

鎌倉の御所の場所で、岡崎義実(たかお鷹)は亀ケ谷を推してきました。
畠山重忠が平家側から寝返ってきました。
和田義盛は祖父を殺された恨みがありそれに反対します。
一方、三浦義澄は父の仇だけど今は忘れると言います。
そこに上総介広常が、信じて集まったのだから頼朝の考えを聞いてこいと提言します。
頼朝のもとに畠山重忠が参上し、頼朝は嬉しいと声をかけます。
決まっていた先陣を急遽、広常から畠山重忠に変更したことで広常は不満一杯です。

■甲斐へ

「法皇の院宣はない、頼朝と手を結べという、どういうつもりか」(武田信義)
あっさり味方になることを了承する信義、時政はよくわからないと思っています。
最初に追討軍とぶつかるのは信義だということを頼朝は見抜いていたということに気づきます。
時政は頼朝を信頼しているとは思えない態度を取ります。
頼朝は、時政を信頼していないようです。

■鎌倉御所の決定

岡崎が推す義朝が住んでいた亀ヶ谷ではなく、京にも劣らぬ雅な広い場所が良いといいます。
大蔵(大倉)がよい、方角も申し分ないと全成の意見を聞きます。
広常は頼朝の家人になったわけではない、と不満気に話します。
和田義盛も畠山重忠のことで腹に据えかねているようです。
頼朝と家人の間で隙間風が吹き始めています。
頼朝と家人の間を取り持つため、宴席を設けることになりました。

■親睦の席

頼朝が広常、三浦たち家人の酒の席にやってきました。
位の高い人への呼び方である「武衛」を、親しい人を呼ぶ時と偽って広常らに教える三浦義村です。

■10月6日鎌倉入り

大庭景親のところへ3万の大軍が鎌倉入りしたという情報が入ります。
梶原景時は大庭景親の家人ではないと言い放ち、ついに頼朝に寝返ります。
伊東祐親は自陣で頼朝軍を迎え撃つ覚悟のようです。
祐親は、八重を渡すなと夫の江間次郎に申し付けます。

■鎌倉仮御所

愛人・亀との密会のため、政子の鎌倉入りを1日延ばすよう命じます。
美依は、義経、武蔵坊一行を目撃します。

■政子一行出発

政子らは端女の格好では嫌だと要求したため、義時は梶原景時の館に着物を借りに行きます。
義時に、大庭景親とたもとを分かったことを打ち明けます。
頼朝と政子一行の久しぶりの対面が実現しました。
鶴岡八幡宮を移築し源氏の守り神、八幡神の威光をもって平家を滅ぼすと宣言します。

■伊東祐清

祐清が船で逃げようとしていたところを捕らえられます。
伊東祐親は自陣で頼朝と一戦を交える覚悟だと白状します。
館に八重がいることを話します。

----つづく----

次回は第9回「決戦前夜」3月6日放送です。

■感想

上総介広常の不満が鬱積するところが描かれました。
そして義経。この頃の義経の行動は殆ど残っておらず、想像の世界ですね。
八重のことも想像の世界なので、まだまだ引っ張ります。
脚本家の腕の見せ所といったところでしょうか。

■勝手に解説

宴席で頼朝を武衛と呼ぶシーンが出てきて、坂東武者が雅な言葉を意味もわからず使っていて、なんとなく滑稽なやり取りでした。
そもそも「武衛」(ぶえい)とは何か?
調べてみると、兵衛府の唐風の読み方らしいです。
兵衛府(ひょうえふ、つはもののとねりのつかさ)とは、律令制度の官司、つまり官職のこと。
確かに、頼朝は、13歳で右兵衛権佐に任ぜられているので、「武衛」とよぶのは、あながち間違いではないようですね。

源氏の鎌倉進出のはじまりは、源頼義に遡ります。
源頼義は、清和源氏経基流・河内源氏の祖・源頼信の嫡男です。
平忠常の乱に功績のあった頼信・頼義父子は、鎌倉の大蔵(大倉)にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党を平直方から譲り受け、頼義は平直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となっていきました。

この源氏の由緒正しき鎌倉に拠点を構えることにした源頼朝は、鶴岡八幡宮を海沿いから現在の山側に移し新居を構えました。

伊豆山権現や熱海付近に隠れていた北条政子も、まもなく鎌倉に移動してきましたが、すぐに平維盛を総指揮官とする頼朝追討軍が、駿河国まで迫ってきたとの報せを受け、維盛迎撃へと向かいました。

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