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【感想】NHK 歴史探偵「甲子園100年」を視聴しました

2024年7月3日(水)22:00~22:45 歴史探偵「甲子園100年」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
今年、誕生から100年を迎える甲子園球場。
数ある球場の中で、なぜ甲子園が私たちにとって特別な場所になったのかを調査!
球場誕生のきっかけは1人の人物の壮大な夢だった?
そして、太平洋戦争のさなかに行われた「幻の甲子園」。
公式大会が中止になる中、なぜ、この大会は開かれたのか?
さらに、全国の人々が甲子園の熱戦に心奪われる理由も検証。
伝説の試合に注目しながら、ラジオやテレビが果たした意外な役割を解き明かす。


■プロローグ

●スタジオで
佐藤所長「珍しい切り口です。高校野球のイメージが強いです」
その歴史を振り返りながら、我々に特別の場所になったのか紐解いていきます。
甲子園球場の100年
大正13年(1924年)甲子園球場誕生
全国中等学校優勝野球大会開催
国民的スポーツではなくマイナーなスポーツでした。

■甲子園球場

・吉川達彦さん
約4000坪、客席47000、最大級の球場です。
「100年前と広さは変わっていません」
なぜ甲子園球場は生まれたのか?
・丸山健夫さん(武庫川女子大)
ある人物が大きなカギになったと言います。

●三崎省三
阪神電鉄の専務を務めていて、阪急と阪神が熾烈な争いを広げていました。
三崎省三の手記
「西宮の海岸をコニーアイランドにする」
中心に据えたのが野球場の建設でした。
吉川さん「世界一の野球場を造る、ヤンキースタジアムよりすごい球場を造ると考えました」

●その狙い
内野から外野まで一望できるようスタンドの傾斜には緻密な計算が施されています。
「前の人が帽子を被っていてもきれいに見える高さまで計算したのです」
最高の環境でプレーできる環境が「甲子園の土」です。
・金沢健児さん
二種類の土、黒土と砂をブレンドしています。
プレーにどのような影響をするのか?
比較実験を行います。

●土の実験
大阪学院大学の硬式野球部のメンバーが実験します。
砂の土は、不規則なバウンドが起きたのです。
甲子園とおなじブレンドの土は、打球の起動は一直線、バウンドも安定しています。
黒土と砂を混ぜることで、柔らかく弾力を持ち、バウンドが安定します。
金沢さん「100年前は試行錯誤しながら、ノウハウを残してもらっています」
大食堂や大鉄傘が作られ、大正13年(1924年)甲子園球場が誕生します。

●スタジオで
佐藤所長「三崎省三という一人の人間のアイデアから始まったというのは驚きでした」
丸山さん「アメリカに7年半留学し、日本人の体格をつけるのが大事だと考えたのでは」
球場だけでなくいろいろな施設がありました。
プール、テニスコート、水族館、遊園地がありました。
263、夏の大会に参加した全国の参加校数です。
昭和9年に675に増えています。
身近な存在になるある画期的なものが登場します。

■甲子園球場人気の原点

●甲子園歴史館
第1回全国中等学校優勝野球大会の試合球が展示されています。
大谷翔平選手、ダルビッシュ選手の高校時代の野球グローブも展示されています。
試合の状況をリアルタイムで伝えるプレヨグラフです。

●プレヨグラフ
大正15年(1926年)大坂中之島公園
大きなボードを利用してボールやランナーの動きを表現して試合展開を見せる装置のこと。
野球の面白さを多くの人が知るきっかけになりました。
時代は昭和へ

●ラジオ中継
・玉置通夫さん
新しいメディアが野球人気を生んだと言います。
「ラジオ放送です」
昭和2年(1927年)8月、甲子園のラジオ中継が開始されます。
一球一球詳しく野球を伝えていたのです。
ラジオの力で野球の魅力が伝わるようにしたのです。
野球ファンが全国に拡大していったのです。

●伝説の野球中継
昭和8年(1933年)8月、第19回全国中等学校優勝野球大会 準決勝
中京商業と明石中学校の一戦です。
試合はなんと延長25回まで続きました。
試合時間は4時間55分
実況なし、10秒、沈黙、歓声に沸く球場の興奮をそのまま伝えました。
玉置さん「うわー!終わったかーという、いやが上にも人気を高めます」

●スタジオで
太平洋戦争の影響で大会が中止になります。
全国優勝記念のボールに昭和17年と書かれています。
「幻の甲子園」と言われています。

■幻の甲子園

●松商学園(長野県松本市)
選士章
なぜ若者たちは選手ではなく戦士と呼ばれたのか?
戦時下の国民の士気を高めるために利用されたのが高校野球でした。
・窪田文明さん
若者を兵士として鍛えるための大日本学徒体育振興大会を開催します。
幻の甲子園はこの大会の一貫として行われました。
デッドボールを避けることは禁止、けが人が出ても選手交代は認められませんでした。
・宮坂眞一さん
「甲子園で野球できることは幸せでした。満員で拍手喝采すごかったです」
しかし、球場の姿はいつもと違う異様なものでした。
宮坂さん「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦争、誰々さん赤紙が来ましたからおうちへ帰りなさい」

●スタジオで
佐藤所長「戦争に利用されたのはやるせない気持ちになります」
昭和18年から全国の野球部が廃止になっています。
戦争に集中せよ、バット、グローブ全部没収されてしまいます」
『佐伯達夫自伝』
「先輩や好球家が戦前から秘蔵していたウイニングボールやサインボールを提供してもらった」
特別な存在になっていくきっかけがテレビ中継です。

■甲子園とテレビ中継

●テレビ中継開始
・毛利泰子さん
スタッフの一人として参加していました。
カメラ3台で中継していました。
バックネット裏、一塁側ベンチ、一塁側スタンドとホームベースより一塁側から撮影していました。
それでは、左バッターの顔が映りません。
実はテレビ本放送が始まった半年後、球場に持って行ける装備はこれだけでした。
「悔しそうな顔とかの撮影は一回もできませんでした」
そして、3塁側とセンター方向にカメラが増やされます。
カメラが増やされたことで、映像はどう変わったのか?

●撮影検証
・小野塚康之さん
9回裏後攻チームの攻撃の場面
一発が出れば逆転サヨナラの状況です。
ここでまさかのスクイズ
5台と3台で比較します。
3台の場合スクイズ失敗がわかりませんが、5台の場合スクイズを警戒しアウトコースにいたことがわかります。
比べると5台の場合、気迫と悔しさが伝わってきます。
小野塚さん「甲子園の熱量が伝わってきます」

●名勝負
伝説の試合のひとつが、昭和44年(1969年)8月、第51回全国高等学校野球選手権大会 決勝
松山商業と三沢高校の一戦です。
延長戦に突入
・扇谷志朗さん
後輩たちの気迫あるプレーに目を奪われたと言います。
「最後まで諦めない姿に感銘を受けました」
故郷の高校生が戦う姿が大きな力になったと言います。
最後は、松山商業が優勝します。
「ずっとその姿が心に刻み込まれ、私も頑張らないといけない、それが原点です」

●スタジオで
丸山さん「野球の文化が人生を豊かにしてくれ、原点が甲子園球場にあるということです」
佐藤所長「僕もまったく一緒です」

ーーーおわりーーー

次回は「恐竜大国ニッポンの原点」7月10日(水)22時放送です。

■感想

甲子園球場の番宣というより、NHKそのものの番宣でした(笑)
テレビとラジオ中継が甲子園球場を支えたと言いたかったようです。
高校野球中継への視聴者の批判に対するNHKの答えですね。
野球は好きなんですが、どうして高校生のクラブ活動をあんなにも全試合中継するのか疑問です。
それも、過酷労働を煽っているのがなんとも嫌な感じ。
公共放送?なんだから、もう少し公平性とか、視野の広さが必要です。
最近のNHK、視野狭窄状態に陥っているようです。
とはいえ、私は阪神タイガースファンなので、甲子園球場には応援に行きたいなあという思いがあります。
神奈川からはちょっと遠いですけど。


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