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【感想】NHKスペシャル「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」

2024年3月24日(日)21時 「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」を視聴しました

<始まる前に>
今日は倭の五王、空白の4世紀ですね。
どんな新説が登場するのか、楽しみです。

<NHKのあらすじ>
古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が!?
“国宝級の発見”東アジア最大の「蛇行剣」や前例なき「盾形銅鏡」が明かす驚きの技術革新。
史上初の統一国家「ヤマト王権」の力の秘密は?
韓国で見つかった“謎の前方後円墳”。
風雲急を告げる東アジアの動乱。
危機に挑む「倭の五王」の秘策は?宿敵・高句麗との激闘の行方は?
最新科学や実験でダイナミックな戦略を徹底検証。
私たちの国のルーツに迫る壮大なミステリーの幕が開く


■プロローグ

ヤマト王権、倭の五王の物語です。

■歴史ミュージアム
来館者(原菜乃華)と司書(シシド・カフカ)それに館長の前川泰之。
ヤマト王権、日本の歴史始まって以来のすごい王権だったのです。
前方後円墳は、ヤマト王権のシンボルです。
近畿地方から各地に拡大、連合政権が史上始めて統一国家を築きます。
『宋書』倭国伝に登場するのが、讃・珍・済・興・武、いわゆる倭の五王です。
実像は謎に包まれています。
倭の五王が活躍したのが5世紀、卑弥呼は3世紀、間の4世紀は空白の4世紀と呼ばれています。

■仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
全長486mはエジプトピラミッドや始皇帝陵をしのぎます。
なぜこれだけ巨大な力を持つようになったのか。

■空白の4世紀

●富雄丸山古墳(奈良)
発掘調査が行われ、大発見がありました。
盾形銅鏡は蛇竜が掘られた世界にるいのない鏡です。
日本列島で作られたと想定されました。
巨大な鉄剣、2m37cm蛇行剣と呼ばれています。
・柴原聡一郎さん(奈良市埋蔵文化財調査センター)
一説には、ヤマト王権の安泰をねがって埋められたという蛇行剣は、X線撮影で、一本の剣であることが分かりました。
・奥山誠義さん
古代中国の鉄剣は1m前後で、蛇行剣は2m37cmと2倍以上、東アジア最大の鉄剣でした。
・岡林幸作さん(橿原考古学研究所)
技術革新が古代日本で起きていたと考えています。
非常に特殊な高度な技術を駆使して作られた鉄剣が生まれてきました。

●どのように改良したのか?
・村上恭通さん(愛媛大学)
開いた口が塞がらない、驚くばかりでした。

●五斗長垣内遺跡(兵庫)
実験で炉を再現します。
穴を掘り、木炭を燃やし、ふいごで風を送り温度を上げます。
鉄を柔らかく出来る1000度に達しました。
4世紀の炉では高温の範囲は、15cm、3世紀の炉と比べると範囲が広いと言えます。
「羽口」、風の通り道となり、もともとは大陸で生まれ、日本で大型化、加工できるようになります。
独自の工夫の結果でした。
「作りたい鉄器を作れるようになり、リーダーの言葉を実現するというチャレンジをしたものと考えやすいです」

5世紀、ついに倭の五王の時代が幕を開けます。
●倭の五王・讃
讃は応神天皇にあたるとも言われています。
誉田御廟山古墳
全長425m、連合政権の基盤を固めたのです。
『宋書』倭国伝
倭王讃のもと激動の世界と対峙していくことになります。

■歴史ミュージアム
「最大の鉄剣を作れるほど技術がすすんだということだね」
「桑・鋤・釣り針・斧・ノミ、鉄こそヤマト王権の源なんだ」
倭王讃が現代に登場。
グローバルな動きが見えていきます

■韓国の前方後円墳

●韓国の前方後円墳
2022年11月、韓国で前方後円墳が発見され大きな注目を集めました。
合計15基、なぜヤマト王権のシンボルが朝鮮半島に存在したのか?
朝鮮半島で生み出され日本列島に伝わったという説が浮上しました。
副葬品にありました。
「ねじり環頭大刀」韓国新徳古墳出土
倭国のものとよく似た甲冑や鉄の矢じりなども見つかっています。
「様々な議論がなされてきました。日本で作られた副葬品によくにていて、和人の墓であると思わざるを得ません」

●なぜこの場所に葬られたのか?
ヤマト王権は東アジアの動乱に巻き込まれ、重大な危機に直面していました。
中国では群雄割拠の乱世に突入、高句麗が勢力を拡大、新羅や百済・伽耶諸国を圧迫していました。
この危機に立ち向かったのが讃です。

●国宝・七支刀(奈良石上神宮)
「百済、倭王」の文字が記されています。
百済の王が倭国の王に救援を求める際に贈ったものでした。

●高句麗
広開土王は勝利を重ねてきました。
倭国が百済に加勢したしたとの知らせが。
「広開土王碑」には倭国との熾烈な戦いが記されていました。
「倭軍が朝鮮半島の中西部まで侵入した。城内に満ちあふれた倭軍を叩くため高句麗軍が攻撃に向かうと敵は退いた」
ヤマト王権が高句麗と戦った真の理由はなにか?
重要資源が鍵を握っていました。
大成洞古墳博物館(韓国金海)
大成洞古墳から発掘された鉄挺です。
鉄は貨幣のように使用されていました。
日本は輸入に頼り、鉄の採取が脅かされ、ヤマト王権は権力の基盤を維持できない恐れがあったのです。
誰が輸入を独占するのかによって国の行方が決まっていたのです。
倭王讃は、東アジアの動乱に身を投じて行くことになったのです

■歴史ミュージアム
「ヤマト王権、想像以上にグローバル」
高句麗で英雄と言われたのが広開土王、領土を飛躍的に広げます。
ヤマト王権と高句麗との戦いどうなっちゃうの?

■倭国と高句麗の激戦

高句麗側の史料では、倭軍は鉄の産地、加羅諸国を拠点に進出したといいます。
現れたのは騎馬軍団、最先端の軍事兵器でした。
魏志倭人伝には、倭国には馬なし、見慣れぬ存在だったのです。

●高句麗の拠点・ソウルの夢村土城
馬の骨や歯が多く見つかっています。
躍進の原動力だった馬が国の宝として扱われていました。
馬がいかに強力な平気だったのかを検証します。

●機動力
最高時速39kmを記録、スタミナにも優れていました。
2日間で200km以上移動できたという記録もあります。
敵の先手を取ることができるのです。

●攻撃力
徳興里古墳
高句麗軍の得意とする戦法、馬から矢を射つ戦術です。
・諫早直人さん(京都府立大学)
戦車や飛行機を持っているのと同じ軍事的な力の差に直結するものでした。

●起死回生の策
倭国は手痛い敗北を喫しました。
倭王讃は起死回生の秘策を生み出します。
卑弥呼以来150年ぶりとなる中国宋の皇帝への使者の派遣です。

●宋王朝 宮殿
宋の高官にヤマト王権倭王讃の使者が謁見します。
「時期尚早じゃ」(宋の高官)
大国宋を味方に据えようとした讃、グローバル戦略が見て取れます。
・森交章さん(東洋大学)
「死活問題として外交というものが重要な時期だった。宋にアピールするという戦略的意図があったと思います」
この頃、中国では北魏と宋が覇権を争っていました。
倭国が高句麗を撃破すればその脅威は低下すると考えました。

●宋の高官
「将軍号を授けよう」(高官)
『宋書』倭国伝
安東将軍の称号を得て、加耶、百済、新羅かやの軍事権も与えられました。
はたしてヤマト王権は危機を乗り越えられるのでしょうか?

■歴史ミュージアム
驚くべきグローバル戦略があったのです。
歴史書によると、中国系渡来人のブレーン司馬曹達を宋の皇帝に派遣し外交交渉を行うという戦略でした。
国際情報網があり、情勢の変化に目を光らせていたのだ。
さらなる秘策があったのです。

■倭王・武

高句麗に大敗を喫して70年後、倭の五王最後の一人、倭王・武でした。
雄略天皇陵
別名・ワカタケル大王
国宝・金錯銘鉄剣(稲荷山古墳)と銀象嵌銘大刀(江田船山古墳)その名を刻んだが見つかっています。
強力な支配体制を築いたリーダーでした。

●打倒高句麗軍
長寿王(20代)が広開土王の跡を継いでいました。
再び高句麗に戦いを挑んだ倭国、倭王・武にどのような秘策があったのか?

●鉄製の甲冑
思わぬ事実が浮かび上がってきました。
益生田古墳群、西都原古墳、小木原古墳、3つの古墳のパーツが一致したのです。
・吉村和昭さん(奈良県立橿原考古学研究所)
「部品単位で同じ調子で作っていける可能性はあると考えます」
朝鮮半島の鉄製の甲冑は量産しにくいという欠点がありました。
倭国では設計図を作り、量産体制をきずいていたと考えられるのです。
さらに、驚くべき秘策がありました。
それはかつて倭国を窮地に追い込んだ、馬です。
5世紀、近畿地方の遺跡から馬の骨が見つかっているのです。
百済から手に入れ騎馬軍団の養成をしていました。
どのような戦略があったのか?

●馬の分析
炭素同位体を分析し、馬の餌を突き止めます。
雑穀を与えていたことが分かりました。
さらに研究者はストロンチウムから生育地の特定、それは東日本でした。
そこから大和に大移動していたのです。
・丸山真史さん(東海大学)
その地の利を活かし、馬を量産していきました。
騎馬軍団を擁する倭王の軍勢、日本書紀には敵を大いに破ったと記されています。
朝鮮半島で手に入れた鉄資源、技術などで国内を統一していきました。
金井東裏遺跡(群馬)
甲を着て亡くなった武人、馬の骨が見つかりました。
保渡田八幡塚古墳(群馬)
角塚古墳(岩手)
造山古墳(岡山)
西都原古墳(宮崎)
前方後円墳は東北から九州まで広がっていきました。
馬は移動手段としても用いられ、重要なインフラとなっていきます。
・丸山さん
「馬を使うことで、移動できる、社会をまとめていくのに重要でした」

■歴史ミュージアム
卑弥呼のグローバル戦略、見事な外交手腕、そして倭の五王の国家戦略、国の礎を作ったのだ。

■富雄丸山古墳(奈良)

今年2月、木製の棺の発掘調査が行われ、副葬品が見つかりました。
青銅鏡、ヤマト王権の権威の証として崇められていました。
髪飾りとして使った「竪櫛」
葬られたのはどのような人物だったのか?古代史の謎が浮かび上がってきました。

●仏教伝来
6世紀半ば欽明天皇に新たな仏教が伝来、百済の王から伝えられたものでした。
人の心を変えねば、仏にかけてみたい」(欽明天皇)
ブッタの教え、漢字をはじめ、新たな知識が集まりました。
木造建築技術の寺院が続々と誕生します。
それとともに、ヤマト王権のシンボル前方後円墳が姿を消していきました。
激動の世界と対峙しながら壮大な戦略で国の礎を切り拓きました。

-----おわり-----

■感想

●韓国の前方後円墳について
『魏志倭人伝』に、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接している。
とある通り、3世紀、朝鮮半島南側には日本の領地がありました。
狗邪韓国、その後の任那日本府です。

前方後円墳であると判明していても、その後の政治的、民族感情のためか三つの円墳にされた古墳、それが慶尚南道固城郡固城の中心部にある松鶴洞古墳です。(大平裕著『知っていますか?任那日本府』)

つまり、あちらの国では前方後円墳では「まずい事情」があったということであり、前方後円墳は日本の古墳だと認識していたということです。

2万年前のヴュルム氷期においてまだ朝鮮半島は無く、その後温暖化によって朝鮮半島が形成されていきますが、日本と朝鮮半島は陸続きではありませんでした。
その後、朝鮮半島には長く人が居ない時代が続き、ようやく人が住みだしたのは、約5千年前からでした。
南からは日本の縄文人が、北からも今とは違う民族が移住してきたのです。

1929年に発掘された釜山市影島区にある「東三洞貝塚」では、日本の縄文土器や九州の黒曜石が多数出土しています。

任那や伽耶諸国を日本人が支配していたことは間違いないでしょう。
そして、百済も通訳がつかずに会話できたと私は見ています。

●倭王の比定
高校生向けに作られた番組らしく、倭の五王がだれなのか、応神天皇、雄略天皇以外の具体的な説明はありませんでした。
すこし期待していただけに残念です。

●倭の領域
第三回の宋への遣使で、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六カ国が日本領だと主張しますが、倭の一カ国だけが認められます。
この時の倭王が「珍」で、珍は讃の弟です。
高句麗と百済はこの中にありません。
高句麗については、日本領ではないことが明らかです。
百済については、建国時期が分かりませんので(通説では4世紀前半)、日本領ではないのか、建国していなかったのかは不明です。
『日本書紀』などを見ると、4世紀後半には日本に朝貢していた記述があることから、5世紀前半には一旦消滅していたのかもしれません。

●騎馬軍団との戦い
倭国が騎馬軍団に太刀打ちできなかったのは事実でしょう。
初めてみた騎馬軍団に恐れをなしたことでしょう。
その後、船での侵攻に変更しています。

6世紀になって漢字が輸入されたような描き方ですが、5世紀には外交文書を書けた、つまり漢字を書け、理解できたことがわかります。

第1回のまとめはこちら、又は下記のバナーからどうぞ。



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