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“騎士団長殺し”読書感想文35. 《村上春樹氏は無自覚的シャーマンかもしれない》

“昼食のあと、私は外に出て裏手の雑木林に入った。厚手の灰色のヨットパーカを着て、あちこちに絵の具のついた作業用のスウェットパンツをはいていた。濡れた小径を古い祠のあるところまで歩き、その裏手にまわった。穴に被せた厚板の蓋の上には様々な色合いの、様々なかたちの落ち葉が重なり積もっていた。昨夜の雨にぐっしょりと濡れた落ち葉だ。免色と私が二日前に訪れたあと、その蓋に手を触れたものは誰もいないようだ。私はそのことを確かめておきたかったのだ。湿った石の上に腰を下ろし、鳥たちの声を頭上に聞きながら、私はその穴のある風景をしばらく眺めていた。

林の静寂の中では、時間が流れ、人生が移ろいゆく音までが聴きとれそうだった。一人の人が去って、別の一人がやってくる。ひとつの思いが去り、別の思いがやってくる。ひとつの形象が去り、別の形象がやってくる。この私自身でさえ、日々の重なりの中で少しずつ崩れては再生されてゆく。何ひとつ同じ場所には留まらない。そして時間は失われてゆく。時間は私の背後で、次から次へ死んだ砂となって崩れ、消えてゆく。私はその穴の前に座って、時間の死んでいく音にただ耳を澄ませていた。”


この穴は単なる物語の小道具ではない。村上春樹ワールドにおける❴井戸❵、❴壁抜け❵、❴1Q84❵の現れだ。ここで、“私”も免色も村上春樹氏も、深層宇宙に潜るという、お決まりごと。スター・トレック、エンタープライズ号のワープ、宇宙戦艦ヤマトの波動砲、エヴァンゲリオンの使徒。つまり作家が作中でシャーマンとなり、シャーマンが物語を動かすという技法。カルロス・カスタネダがヤキ・インディアンの呪術師ドンファンのもとで修行したり、中沢新一がチベット仏教のケツン・サンポ・リンボチェに師事したりしたように、村上春樹氏も無意識的にシャーマンとなり、何ものか重大なものを、この世界に持ち帰り私たちにわかりやすく、表現してくれているとも言える。そのことが、国籍民族を越えて、作品が強烈に求められる理由の一つだと思う。

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