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アウシュビッツ・フラクタル11. 参照:●“アウシュビッツと私”早乙女勝元著●“死者の告白 30人に憑依された女性の記録”奥野修司著 《生者のために死者が祈る、東西における霊的な愛》

“私はもはや、日々の一皿のスープと一きれの固くなったパン以外には、関心を向けなくなっていた。パン、スープ………これが私の生活のすべてであった。私は一個の肉体であった。おそらくはそれ以下のもの。ー一個の飢えた胃。ただ胃だけが、時の経ってゆくのを感じていた。……

人間らしい心を失う、それを『夜と霧』の作者フランクル教授は「退行」または「内面の死滅」と精神病理学者らしく指摘しましたが、人間性退行(死滅)の第二段階は、無感覚、無関心、無感動となって現れるのだ、といいます。……

ところが他者への思いやりとかやさしさというものは、実は人間が進化の過程で身につけた最高の財産であるらしく、人類が進歩のかわりに退歩するときには、いちばん新しく獲得したものから失うというショッキングな警告を、私はかつて日本体育大学教授正木健雄氏の『子どもの体力』で読んだことがあります。…自殺や非行の例を上げるまでもなく、内面の退廃が著しい速度で子どもたちをとらえ、現代人の心をむしばんでいるのは周知の事実です。…

しかしアウシュビッツの歴史は、すべての人間がかならずしも飢えた豚になり下がったわけでなく、信じがたい限界状況にもめげす人間としての心をー尊厳を守り通せる可能性のあることをも知ることができるのです。…

「元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情資質にも拘らず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」…

しかし他人の生命をいとおしむあまり、自己を犠牲にすることで、尊厳の一語を貫き通した人もいます。ブロック11の地下室にある餓死室で悲惨な最期を遂げたマキシミリアン・マリア・コルベ神父がその人で、この人は一八九四年ポーランド生まれといいますから、餓死室で殺された時は四七歳でした。神父は一九三〇年に長崎にも伝道にきて、六年余を日本ですごしました。帰国してからは神学校でスコラ哲学を教えていましたが、三九年秋にナチスの政策に批判的だったということだけで捕われ、いくつかの収容所を引きまわされたあげくアウシュビッツに連行されたのです。収容者として強制労働にたずさわっていたところ、ある日、脱走者が出ました。一人でも脱走者が出れば、SSはその見せしめとして無差別に一〇人あるいは二〇人を選び、脱走者がつかまるまで水も食物も与えることなく、地下牢に閉じこめたまま。餓死室から、生きてふたたびかえってきた者はいません。…選ばれた中に、「さようなら、女房や子どもたちよ。おれの分まで長生きしてくれ…」と、号泣したポーランドの一兵士がいました。神父はつかつかと前に出て、静かな口調で言いました。「あの人とかわらせてください。私は家族がいませんので…」コルベ神父の要求は入れられて、一囚人の身代わりになったこの人は、餓死室の中で夜も昼も祈り続けて、一四日間、ついに一滴の水も口にできずに一九四一年八月一四日、壁によりかかったまま息絶えました。最後はフェノール液の注射で毒殺された、という説もあります。……自己の内面を殺すことによって生きのびた人が多かった中で、自己を犠牲にすることで他者の生命を救い、内面の祈りを全うしたのだとすれば、キリスト者として完璧な生を生き抜いたのかもしれぬ、という気がするのです。…

しかし、またその一方に、ナチスの人間性否定の犯罪行為に抗して、収容所内でレジスタンス運動に参加した人々が多く存在したことも、忘れてはならないのです。いかなる状況下にあっても、決して否定しつくせぬ人間の心のあかしとして。”


【死者の告白】                                         ❝「お寺に行きたい」❞                             …12歳の男の子の霊があらわれたのはまさしくそんな時期だった。「ある日、犬の散歩を終えて帰ったら、家の中にその男の子がいたんです。霊がいるのはもう日常茶飯事だったので驚きもしません。男の子は学生服を着ていたので中学生だと思いました。……『さっきからそこにいるけど、どうしたの?』すると『お寺に連れて行ってください』と言うのです。…『はい、和尚さんに話を聞いてほしいんです。』と言うのです。                                             ❝「親不孝したぼくは、地獄に落ちますか?」 ❞                                                       …「すごく行儀のいい男の子が、住職さんに話を聞いてほしいんだそうです」……     「和尚さんに話を聞いてほしいんだって?どうした?聞くよ」と住職が言うと、それまでおとなしくしていた男の子がいきなり泣き出した。顔をくしゃくしゃにしてすすり泣きながら、とぎれとぎれの言葉を必死につなぎ合わせようとしていた。「自分は父子家庭だというんです。…ちゃんとした仏壇を買うお金がなかったのか、あるいは震災で手に入らなかったのか、仮設住宅には、座卓の上に簡単なお仏壇が置かれ、そこに骨壷や写真、花、食べ物などが所狭しと置かれていました。横の壁には2011年4月から男の子が着る予定だった制服が吊るされていました。お父さんは仏壇の前に座ると、話しかけるでもなく、お線香をあげたまま動かないのです。それを男の子はじっと見つめていました」……「彼は言うんです。『お父さんは、朝どんなに仕事が早くても、ぼくのためにご飯をつくってくれました。だから寂しい思いをしたことはありません。父子家庭だったことも不満に思ったことはありませんし、自分が津波で死んだことも納得しています。だって、お父さんは今もぼくのことをちゃんと供養してくれているんだから』と。…そして住職さんに尋ねました。『ぼくは地獄に落ちますか?こんな親不孝をしたぼくは、地獄に落ちますか?』男の子が泣きながら何度もそう尋ねているのが見えました」                                  ❝「寺の子になりたい」❞                           「お父さんは仮設住宅の中でその子を祀った仏壇に向き合っていますが、わが子が亡くなったことに納得できないのか、納骨もしていないんです。2013年の春頃の話ですから、あの津波から2年ほど経っています。『お父さんは、僕がその学生服を着るのをすごく楽しみにしていたのに、ぼく…ぼくは地獄に落ちるんですか?』『そんなことはない、絶対にそんなことはない。親より先に死んだから親不孝だなんて、そんなことはあるはずはない』男の子は安心した表情で、『住職さんにお願いしたいことがあります』と言うんです。……その男の子はいきなり『寺の子になりたい』と言ったんです。…」…「わたしは、その子がなぜ寺の子になりたいのかすぐわかりました。肉体のない魂にできることは一つだけです。きっと住職さんもわかったのでしょう。…『いいよ』とやさしく言いました。『寺の子になりな。一緒に暮らそうな』その子の表情がほころびました。男の子は、自分はなんて親不孝なことをしたんだとずっと悔やんでいました。だから、お寺の子になって、お父さんのために祈りたいと思ったのです。生きているお父さんが、自分の死を乗り越えて幸せになるようにと、祈りたかったのです。....」

天井近くの窓から差し込む光が、住職と男の子の上に降り注ぎ、高村さんは荘厳な宗教画を見ているようだったという。それはまるで時間がとまったかのような光景だった。

❝生者のために、死者が祈る❞                 「君とお父さんのために祈るから、一緒に手を合わせような」住職はそう言うと、その小さな部屋でお経を読み始めた。「ふと見ると、住職さんの横にその子も正座して、必死に拝んでいるんです。住職さんのがお経を読むのに合わせて、生きているお父さんのために手を合わせて、懸命に拝んでいる姿を見たとき、なんだかそれまでとは違った透明な気分になりました。肉体をなくしても、生きている人のために、死んだ人が祈る世界があるという事実―、わたしにはものすごい衝撃でした」”


(✷‿✷)もはや何も書くことはありません。しかし、コルベ神父もまたあちらから、祈ってくれているのは確かに思われます。東西における《霊的な愛》の事例。

※画像は“アウシュビッツと私”より。マクシミリアン・マリア・コルベ神父の若き頃。


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