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寛やかに(2023年のテーマ)

新しい年の一つ目の文章として、タイトルにこの言葉を使うのは2回目になる。よく読みを聞かれるが、「寛やか」で「ゆるやか」と読む。

1回目は2年前、2021年の年明けだった。あの時は函館の旧市街地にある「わらじ荘」という家で、年末から年明けしばらくまで10日ほど過ごさせてもらった。わらじ荘は、築100年以上の古民家を直した建物に学生や若手社会人が共同生活をしていて、住み開きをするなど地域と密な関係をもった暮らしをしていた。

そこに滞在している期間、別のブログに毎日エッセイのようなものを書いていて、1月1日に書いたタイトルが「寛やかに」だった。

ちなみにその文章は昨年、僕の不注意と怠慢でこの世から失われてしまったので僕のかすかな記憶の中にしかない。この文章を書こうと決めてからなんとか思い出そうとしているが、2年も前のことなのでだいぶ靄がかかっている。

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記憶を辿る。どうして「寛やか」という言葉を選んだんだっけ。

たしかあの元日、大みそかに翌日の朝ごはんの時間をみんなで決めたにも関わらず、ほぼ全員がその時間までぐっすりだった。大体1時間ちょっと遅れてやっと、地域の方が贈ってくれたり、近所のお母さんが差し入れに持ってきてくれたおせち料理を大勢で食べたんだと思う。

夜には何人かで近くの温泉に行こうとなり、ただ男性陣は知り合いに頼まれていた雪かきのバイトがあったので、車で女性陣だけ先に送って雪かき後にお風呂に向かうことにした。だけども雪かきが思いのほか大変だったので予定より大幅に遅れてお風呂に入ったから、当然湯上りもかなり遅くなった。女の子たちは先に上がっていたけど、「雪かき大変だったんだね、お疲れ様」というくらいだった。

この日、立てていた予定はおおかた遅れたり、流れたりもした。それでも僕はそんなに嫌な気持ちにはならなかったし、むしろ心地よさすらあって、それはきっと一緒に過ごしていたみんなのおかげでもある。

あの日のあの場所、そして彼らには、他者と暮らすうえでの「ま、そういうこともあるよね」という寛容さがあった。

きっと人によってはイライラするようなルーズな1日だったけれど、僕にとっては心地がよくて、どこで誰に接するにも自分はこの寛容さを持っておきたい、そういう1年にしたいと思ったのだと思う。


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時は巡って昨年の秋、僕も一軒家での共同生活を始めた。住み開きもしていて、家にはいつも他者の存在がある。

他者と暮らして得られることは、いい意味での鈍感さであり、それは寛容さに繋がっているとも思う。

生活が自分の思い通りにならないことはしばしばあって、掃除をするときの綺麗さの基準もばらばらだし、子どもの頃から続けている生活習慣もそれぞれだから仕方ない。みんなでご飯のときもたまにあるけど、時間を決めていてもその時間にみんな揃うことの方が少ないし、そうなったらそうなったで先に始めるか、集まるまで各々が好きに過ごしている。

そういう「違い」とか「イレギュラー」をいちいち気にしていたらきりがないということもあるけれど、「それならそれで」という感覚がある。自分の力でどうにもならないことに気をもんでも仕方がない、という感じかもしれない。

寛容な面々で一緒に暮らせていることは、とてもありがたい。


あの元日から2年、寛容であることは自分にとってひとつのテーマだった。そして、それはまだまだ続いていきそうだ。

ちゃんと調べると、「寛」という漢字にはこんな意味がある。

1. 態度がゆるやかである。気持ちにゆとりがある。心が広い。
2. ゆるやか。厳しくない。許す。
3. くつろぐ。ゆったりとしているさま。のんびりとする。からだを休める。

人と関わるときに、ゆとりを持っていたい。
違いを受け入れて、もっといえば楽しんだり面白がったりしていたい。

この2年での気づきのひとつに、寛容であるにはまず「知ること」なんじゃないかということがある。

考えや決断の違いには、その人の性格や価値観が関わってくる。もっといえばその価値観を作っているのは、これまでの人生経験だ。だから、その人がこれまでどんな人とどんな経験をしてきたかということに思いを巡らすと、不思議と食い違う意見にも納得がいくことがあった。

生きてきた経験の中で得てきた「人生の法則」めいたものが人それぞれにあって、それは時に物語の形でひとりひとりの思考の背景にある(この物語を”ナラティブ”ともいう)。

そこまで知れば、善か悪、白か黒で語れることはほとんどない。
それぞれの色がどうしてその色なのかに関心を持つことが、他者に対して寛やかでいるのに必要なのかもしれない。


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自分で言うのもなんだが、意識しているだけあって自分はかなり物事に対して寛容な方だと思っている。(そんなことねえよという人がいたら、手遅れになる前に早く気づかせてほしい。)

自分なりの強いこだわりが出るシーンは多々あるが、自分にこだわりがある分、人のこだわりにもリスペクトを払おうと心掛けている。仮にそれに同意ができないとしても、あなたがそう考えているということは理解できるよ、という姿勢でいようと思っている。


考えていくと、何か自分の外のものに対して「寛容」「寛やか」であることは、「相手を包み込む優しさ」というイメージだけではないのかもしれない。

寛やかであるために、自分と相手を同化せず別の人間として付き合うことを心掛けていたいと思う。ちゃんと線を引くから、違いに対して「そりゃそうだよな」「そういうこともあるよね」と思える。

そのためにも、まずは自分が自分であるといえる所以、芯があるといい。他者の言動や環境に簡単に侵されない自分の芯を持っていれば、他者との違いにも、時に起こる失敗にも「大丈夫、大丈夫」と向き合えるような気がする。



ちなみに元日、家族での初詣にカメラを持っていったらSDカードが入ってなかった。ただの鉄の塊を肩にかけ、「まあしゃあないか」とスマホで写真を撮る。おみくじを引いたら人生初の凶が出た。凶なんて多分たくさんは入ってないから、むしろ貴重だ!なんて思って持ち帰っている。すごく自戒になるお言葉が書いてあったので、部屋にでも貼っておこう。




誰かの気持ちも行動も、思わぬイレギュラーな出来事も、最終的には自分にはどうすることもできないと開き直る。期待はほどほどに、思ったようにいかなかったら「それはそれでちょうどいい」と思える芯のある寛やかさをもっていたい。そういう自分でいられる時、僕は僕を好きでいられると思うのだ。


今年もまたいっそう「寛やか」でいることを、そして「芯のある寛やかさ」を得ることを自分のテーマにしていきたいと思います。

2023年の抱負ということで。



2022年のまとめ的なnote


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