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沖永良部島の方言でミュージカルを作ることになった金田一38歳の備忘録

 ふと父と話していたら
「こないだほぼ日の飲み会でおーきくんを呼ぼうって話になったらしいよ」
という衝撃的なことを言われて「なんじゃそりゃ!」となり、
心当たりのある言語学者の山田君に連絡をとったら飲むことになった。
西荻窪のさんだるきっちんで山田君といろんな話をした。与那国の方言を調査して、次は沖永良部島なんだと言っていた。2018年の5月のことだ。

 2018年の夏に沖永良部島に行って、演劇ワークショップをするという企画を山田君が立ててくれて、予算もあるよ!ってなったのだけど、結局行く予定日に台風が来て、僕らは東京を発つことが出来なかった。
 ひどい台風でキャンセルしても返金できなかったJetstarには今後一切乗らないと心に決めた。JALは返してくれたので、そのお金で成田のうなぎ屋さんをはしごした。めちゃくちゃおいしかった。

 2019年2月。しばらく山田君との連絡は途絶えていた。
 僕も当時演劇の専門学校に勤めていたのだけど、いろいろあって、辞めてやる!と決めて、さぁこれからどうしようかと思っていたときに、山田君から連絡があった。

「小説を演劇にすることは出来る?」と。

「出来る!」と即答して、その小説を読んだ。
 沖永良部島の中学校で美術をしている神川こづえさんが書いた『ヒーヌムンの生まれた海』というタイトルのそれは、本当に勢いで書いたようなもので、方言で喋り、僕の全く分からない文化背景があるようでいて、それが表現の形なのかファンタジーなのか、どこからが創作でどこまでが本当にあったことなのか、まったく読んだことのない小説だった。「でも、これはできる」と読んだ時に思った。
「これは、俺がやらないといけない」と思った。

 僕の曾祖父である金田一京助は、アイヌ語の研究者だった。石川啄木に出会って、文学者になるのを諦めて本を売り払って、すっからかんで北海道に渡り、消えていくアイヌ語を何とか残そうとしていた。
 僕の祖父の金田一春彦は、方言を研究していた。訛りを聞けば「君はどこどこの出身だね?」とあてることが出来た。ラジオ・テレビが普及し、全国でNHKが標準語とか共通語とかいう日本語でアナウンスをしていることで、方言が消えていくし、方言を出すことが恥ずかしいとか思われていたであろう時代に、方言を研究していた。
 僕の父である金田一秀穂も言語学者をしている。「言葉は変化する」と言った春彦のさらに上をいく「正しい日本語は、自分の心にそぐうものであれ」と言い放って、ガッチガチの間違った日本語ハンターたちを少しだけ黙らせている。

 僕は、有吉反省会に出演して、ことばの学者の血を途絶えさせたと言われ、親の金で芝居をしていると言われ、クズ扱いされて、実はタイムショックで優勝していたとかQさま!!に出ていたとか、そういうことは忘れ去られて、儲からない芝居をし続けて、妙なプライドを持ちながらくすぶっていた。非常勤で3年間教えていた時は良かった専門学校も、職員室勤務になったとたん周りと反りが全く合わず、2年も続かないうちに退職した。
 そんなときに出会った沖永良部島での方言ミュージカルは、どうしてもやりたかった。

 2019年8月の中旬、台風が過ぎ去った直後に僕は沖永良部に来た。2週間ほど滞在して、神川こづえさんに会い、小説の舞台になった場所をめぐり、背景にある島の歴史を調べ、島の人たちから直接妖怪や子供の時に会った不思議な体験話を聞き、鍾乳洞に入り、海に潜り、黒糖焼酎を堪能し、えらぶの美味しいご飯を食べた。置き土産に神川こづえさんが考えた短編をもとに『嫁の黄泉返り』という芝居の脚本を2日で書いて渡した。いつになく早くできたのでとてもうれしかった。『嫁の黄泉返り』は方言訳をして敬老会で発表しようとなっていたが、話がどんどんでかくなって、もっと大きな舞台「しまむに大会」で発表されたようだった。

 2020年3月の末に知名町生涯学習課の課長さんから連絡があり、方言ミュージカルの本番を2021年の2月23日にする予定であること、5月に金田一君に来島の上で公演を進めていこうという話になった。コロナが心配で仕方なかったけど、その電話ではコロナはいませんと言っていた。
 けれどその一週間後、沖永良部島でコロナ感染者が一人出た。話に聞いた限りではとんでもなく大変だったらしかった。
 日本全体に緊急事態宣言が出て、5月の来島は無理だろうとなり、第1波が収まりつつあった6月に連絡したら、「2週間後に来てください、打合せをしましょう」ということになった。
「それで金田一さん、今日から毎日検温報告をお願いします。」
当時どこにも売っていなかった体温計を持っていてよかったと思ったのは、これが初めてだったかもしれない。

 実は、これだけ時間を与えていただいたにもかかわらず、台本は初稿ができていなかった。半年前に訪れて、新鮮だったはずのえらぶの記憶が薄れていて、どうにも書けずにいたのだった。

 2020年6月29日月曜日、書けないでいる台本を抱えて僕は沖永良部島に来た。宿は去年住んでいたところを安く借りることが出来た。翌日打合せをして、脚本作りに取り掛かった。書いていてわからないところは、和泊の民俗資料館の先田先生と会ってお話を聴くことが出来た。神川こづえさんは毎日のように気をつかって下さり、いろんなものをくださった。去年と変わっていたことはたくさんあった。変わらないこともたくさんあったので、変わっていないものをたくさんたどって、去年出会った人たちと再会を重ねて、なんとか脚本を仕上げた。8月も半ば、お盆明けに出来上がった。

 初稿があがるちょっと前に、方言ミュージカルの実行員会の最初の会議が開かれた。自己紹介とこれからの話がなされた。
 僕の自己紹介になり、曾祖父の話をしたら堰を切ったように涙が流れて止まらなかった。なんとしてでもこのミュージカルを成功させないといけないと、言って、椅子に座った。涙のワケがわからないまま、とても疲れた状態なのに、その日は全然眠れなかった。

 8月の終わりごろ、小さい台風8号が来て、9月に入り、9号が怖いねという話をしていたら10号が来た。9号と10号の間にあった木曜日に楽曲制作の打ち合わせをした。詞は僕が書いて、作曲は沖永良部高校の川口先生と知名中の向江先生、マルチな才能を持った要秀人くんと、えらぶの10代で一番三味線がうまい森田敬太君が集まってやる。曲のイメージを話していたら止まらなくなった。「これが、創作だよな」と思いながら、芝居を作る喜びを感じていた。

台風10号が奄美諸島を直撃してきているいま、避難しながらこれを書いています。

方言ミュージカル『ヒーヌムンの生まれた海』は2021年2月23日
沖永良部島は知名町にあるあしびの郷文化ホールで行われます。

現在、出演者・ボランティアスタッフを大募集しています。
沖永良部島の島民で作り上げる方言ミュージカルにぜひ参加していただければ幸いです。10月から週2回程度の基礎練習をはじめて、だんだんと頻度を増やしていって2月の本番に向かいます。
年齢は問いません。高校生以下の方は保護者の承認が必要です。
おもしろい作品になっています。戦時中から戦後の知名町の歴史と文化がぎゅっと詰まったにぎやかなミュージカルです。

ぜひ。詳しくはあしびの郷(0997-81-5151)にお問い合わせくださいませ。






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