歩む人は歩み続ける

昨日の締めは はまちかまだった。
ランチの時間を取らずに 仕事をしたので 早めにオフィスを閉めて 
遅めのランチ、早めのディナーをしに 寿司屋へ立ち寄った。
普段は ほとんど行くことがない店だが 家に帰って料理をするエネルギー
が なさそうだったので 友人が働いていることもあり そこに決めたのだった。
ちょうど開店したばかりの ハッピーアワーで 手巻きがお得になっていた。
友人が 注文を取りにやってきて 注文を取った後 はまちのかまを 焼いて
もらうから お土産で 持ち帰ってくださいという。
ラッキーなのは 私ではなく うちのねこ様たちだった。
家に戻って 包みを開けると すぐさま 台所へ走ってきた。
そして 食べっぷりを見ながら ねこ様も いつもと違うものを食べたいとき
があることを 改めて感じた。

昨日 久しぶりに オフィスに出かけてきた カップルは 前のオフィスの
時には よく予約を入れてくれた。が オフィスが 島の反対側に移転して
からは ほとんど会うことがない。
年齢も確か 80前後だと思うし 遠くから 運転してきてもらうのも 何か
あったら 大変だから 仕方のないことだ。
二人とも 元気そうで よかったですという私に 最近は バタバタ忙しくて
というので 家の改装は とっくに 終わったんでしょ?というと 葬式が
多くてねという。それで チン毒の話をして 最初は 打ったかもしれないけど
もう 打っちゃダメよと言い聞かせる。
それが どういう理由でダメなのか 説明しているときに 二人とも 私が
何を言っているのか 検討もつかないという 表情になった。
それで 私は 話しを途中で切り上げ 近い将来 彼女たちの家を 尋ねることを伝え 彼女たちは 立ち去った。息子の嫁が 看護婦で しかも 息子は
真珠湾で 仕事をしているので どちらも上からのお達しで 打ってしまった
ことだろう。80代といえば まだまだ 病院を信じている世代でもあり
当然 私の話しなど 理解の外だということは 納得がいく。
仮に 彼女たちが もっと打つ予定と言っても 私は 止めないだろう。
それは 誰にも 選択する権利があるからというのとは 少し違う。
それは どちらかと言ったら 木が枝を伸ばすのと似ている。
つまり最初はみんな 一緒に木の幹の部分だった。そして 打つことになった人と 打たないことにした人は それぞれ 別の枝として伸びていった。
打つことになった人の枝には その人たちを支えたい人たちや 助けたい人たち
も含まれている。
その人たちは その枝からさらに 他の枝を伸ばしている。
そして 打たない人たちは ただひたすら そちらの方向に伸びるのだ。
だから 打った人は 打った人でいい(シェディングは 大迷惑だが)。
が 打たない人たちは 打った人たちに あれこれいう時間に 自分たちは
その先に 進むしかない。
人の数だけ 世界が存在する。
誰もが 同じものを見ているわけではない。
だからこそ 選択に違いが出てくるし 片方が 別の片方のことを 全く
理解できないのも 無理のないことだ。
多様な副作用が 打った人たちを そこにとどめ 助けたい人たちも 
そこにとどまる。それは それで いいじゃないかと思う。
その人たちは そうした社会を 築いていけばいい。
デスヴァレーを 歩み進む開拓者ではないが 打たなかった人たちは まだ
見ぬ先の人生に向かって 歩んでいくしかない。
それが 進化なのだと思う。
そして 枝は 生きている限り 伸び続ける。


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