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マイノリティとか学校とか

2022年5月10日の文


マイノリティになることが怖くない。
っていうか、人はマイノリティだし。

「おとなりさんはなやんでる」という番組に知り合いが出ていたので、拝見させてもらった。
出てくる相談される方たちは、子供に「普通であって欲しい」と願っていた。
とりあえず今、彼らが直面している、人から常に悪意を向けられる恐怖や、あの場所にいる生きがたさは全部無視して、「とりあえず行って、学校だけは行って」なんだな、と思った。
そんなに恐ろしいのか、と、思った。
その苦しさや恐怖に駆られていることを、家族で共有したりはしないのかな。
分かるのにな、あなたが不安を解消して欲しくて、自分が蔑ろにされていることは、伝わってくるのにな。


僕が不登校になっていく時、両親はそんなに「行って」という感じではなかった。
どちらかといえば、ズル休みしている、みたいな感じ。
母の場合は、「家にいなかったらまだいいけど、家にいるのに、家事や生活を送る上で必要なことを何もしないのは無理」だった。
今はその気持ちが分かる。
家事は続けていくことが、終わりがないことが何より大変だ。
そんな家事を、できる状況にありながら、やってもらうことになんにも感じてないような人がいたら、僕も耐え難い。

父は、否定するよりも、僕がこれからどんな変化を迎えるのか、懸念している感じだった。
それは多分、母も同じ。
学校に行かなくなるのは、言葉以上に付属して付いてくるものが多い。
人に接さないことや、学習指導要領の勉強をしないことなんかより、それらを含む様々な変容によって、僕が健やかに生きていけなくなることのほうがよっぽど問題に感じていたと思う。

母も父も、幼い頃にマジョリティから排除されて虐げられた経験があり、「マジョリティでいることってそんなにいいか?」という感覚があるようだった。
父はその経験を経て少しずつ試行錯誤を繰り返し、集団に身の置き場のある経験も積んだようだが、母はどう頑張っても必ず身の置き場がなかったそうだ。
集団や、その場でマジョリティとされる人々に対しての憎しみや怒りが母を今も苛んでいるように見える。

不登校になる前の9月辺りは、週に1、2回休むようになっていた。
そんな時、よく母とコストコに行ったり、IKEAに行ったりした。
私が行きたくないと言ったら、じゃあ今日かIKEAでも行こっか、と誘ってくれた。
よく覚えていないけど、感謝している。
母のその、「受け入れないつもりはない」という態度は、加害的な学校と、受け入れられない自分の状況に挟まれて身の置き場のなかった僕を、少し励ましてくれていたように思う。

家や学校以外に居る場所がないのに、どちらからも加害的な状況に置かれ、受け入れられないのは、あまりに苦しいことだと思う。
番組を見ていて思ってしまった。
「あなたの苦しみを蔑ろにしたいのではない。でもじゃあ、あの子の苦しみはどこにあるの?あの子の人権はどこにあるの?」と。
誰だって苦しい。
誰だって変化に迫られて、追い立てられ、思うように上手くは進められない。
辛い時間が長く続く。

休むことは本当に大切だ。
待つことが心をつくる。
言葉に昇華するのにも、自分の中で飲み込むのにも、考えるのも感じるのも、それ相応の時間や力が必要だ。
多分本人だって焦っているし、恐れている。
この世界で生きていけなくなることを。
だからせめて、あなたはその人の生きる場所をなくさないで、と願ってしまった。

でも、母や父だって、私自身だって、この不登校ということに対して素晴らしい対応ができたかと言われれば、そうでは無い。
よく聞く昼夜逆転や、部屋への引きこもり、躁鬱人になったこと、不眠過眠や、様々なことがあって、その度に受け入れられない思いを繰り返して、慣れたり呪いを解こうともがいたり、両親を巻き込みながらなんとかここまできた。
まぁ全く楽ではなかったが、今は、不登校という選択をした自分で良かったと思っている。
僕はマイノリティかな。

不登校とは、個人の問題じゃない。
その人の生活態度が、とか、無気力が、とか、対人関係が、とか言われるけど、それを引き起こしている全ての発端はこの国の学校教育だ。
なにもなしに人は無気力状態にはならない。
いじめと呼ばれる暴行や精神的苦痛が強いられる状況が生まれるのも、まず学校が問題を抱えているからだ。
加害的なあの場所が、暴力的なことへ大きく加担している。

それぞれの人が抱えているものがあるのに、こうであるべきだ、こうでないのはおかしい、こうしないと生きていけない、そういうことを教える教育ってなんなのだろうか。

不登校は社会問題だ。
その人個人の問題で矮小化できるものでもなければ、その人が悪かった訳でもない。
あなたと私の生きる社会の問題なのだ。

社会は様々なシステムによって回っているように見えるけれど(実際そういうところが多くあるが)、結局のところ個人個人の生活の積み重ねだと思う。
システムは変化する。
これが正解でもなければ、ずっとこうな訳でもない。
もっと、過ごしやすい社会は存在すると僕は思う。
個人の力を侮ってはいけない。
その個人の積み重ねが文化となり、社会となり、この国や社会を作っている。
「あなた一人ではどうにもならない」「変えられることなんてない」と、このままであってほしい人間は言い聞かせてくるが、そんなことはないのだ。
生活の積み重ねが社会を構成していく。

この世界は予測できないものばかりで、変えたいと思っても変えられないものばかりだ。
けれどそんな社会に繋がる、自分は変えることができる。
私が健やかに在れる世界は、少なくとも今よりマシだと思う。
だから、考えて選択する。
これがこの先を変えていくのだと思って、指に力を込める。

苦しい地獄だけれど、その中で生きているのだ。

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