怠惰ってなに
怠惰ってなんだろう。
最近、自分と歳の近い人と集まって話す機会があった。
みんな色んなことを、その人がしてきた経験と、状況と、在る心体とで話していた。
自己肯定感が低いのか、みんな、ただ自分が豊かに生きるだけではダメだと話しているみたいだった。
社会に出て生きていける人間になるには、高いハードルを努力して超えて、自分で未来を掴み取っていくべきで、それができないのはその人がやってこなかったからだ、その人が悪い、つまり、自己責任だと。
あるいはこんな話もしていた。
学校という場が仮にもっとルーズな場所であったなら、自分はきっとサボってばかりで全く勉強しなくなるだろうから、ある程度の切迫感やハードルは必要なものだと。
怠惰になってはいけないと言っていた。
学ぶということを人間はやめることが出来ないと私は思っている。
学ぶということであり、活動するということ、それをやめることができないと。
一時期、本当に活動せずに、過ごしていた時期があった。
気力も体力もなく、希望も渇望もなく、本当に動きたくないし動かないし、ほぼ寝ているか、スマホを見ているか、少しご飯を食べるかぐらいで、歯を磨く、風呂にはいる、人と話す、立ち上がるのもかなりの力がいることだった。
しんどかった。
しんどかったけど、それは、いろんなものを含めたしんどさだった。
その中の一つが、活動できないしんどさだった。
退屈なのが怖くて、しんどい。
人間は退屈がとても苦手だと思う。
やめることができない、ぼーっとすることができない、活動をやめて、ただ静かにその場に居ることができない。
僕は瞑想が苦手だ。
次々考えが浮かんで焦ったり凹んだりして気を休めることができないから。
それだけ動けなくても、動きたかったのだ。
退屈で平坦で、ただ繰り返し日々を過ごすことが嫌だったのだ。
人間には活動に対する渇望がある。
身体の命題は活動することだから。同種を増やしていくことだから。
つまり、動かないなんてことはできない。
息をしないことができないように、どんなにそれによって何かが壊れていこうが、強欲だろうが、動かないでいられないのだと思う。
怠惰だ惰性だと言わずとも、嫌なことはしないし、やりたくなったらやるのだ。
そもそも学ぶということは、学習指導要領を履修することでも、卒業資格をとることでも、受験に合格することでもない。
学ぶということは、自分の見れるものを、感じられるものを広げることで、それはつまり世界と共有できるものを増やしていくことだと思う。
学ぶことは、その人がより生きやすく、少しでも豊かに心地よく、健やかでいられるための手段なのだと私は思っている。
私は社会のための、無にするための"個"ではない。私は私が生きていることが大事な"個"だ。
誰かに対して厳しく、ハードルをあげることはできるだけしたくない。
いつ何時誰に何が起こってもおかしくなくて、それぞれの人がただ与えられた状況下で、精一杯生きているだけで、私のことが私のせいだけでないように、あなたのこともあなたのせいだけでないのだから。
起こっていることを、ただ受け止める他なかったと思う。
今までも、今も。
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