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哲学を"する"とは何か

 人が呼吸をするように、哲学者は哲学を"する"。つまり、哲学とは概念であると同時に行為である。では哲学とは何かと聞かれれば、私は次のように答える。

問題解決のために、自分の意志を持つこと

 ここでの問題が指す意味は、広くて狭い。世界はあらゆる問題を内包しているが、実際には私達が直面するのはその中の一部だ。
 少なくとも私達は全ての問題に対して、解を用意する必要はない。だが避けられない事態は往々にしてある。

 具体例を挙げよう。あなたは安楽死に賛成だろうか?反対だろうか?恐らく殆どの読者には関心のない話だろう。しかしもし、あなたの大切な人物が、またはあなた自身がそれを選択しないといけない場面に陥ったら?
 
 こう言った倫理の問題に対して「人それぞれ」という言葉を使うのは簡単だ。だが問題はもっと身近にもある。外出を自粛するべきか、しないべきか。気だるい月曜日の仕事に行くべきかどうか。この記事の続きを読むべきか否か。つまり哲学とはあらゆる事柄に対する「選択と行為」なのである。

 となると私達は知らない内に、哲学をしているように思える。だかしかし、実際はそうではない。なぜなら哲学の対義語は思考停止であるからだ。
 そして人間の行動のほとんどは習慣に委ねられている。だから私達は思考を省略して、いつも同じ行動を取ろうとする。だからまず哲学を始めるには常識を疑わねばならない。

 こんなに眠いのに仕事に行く必要があるのだろうか?あるとしたらそれはなぜだろう?そもそもなぜ働かなくてはならないのか?

生きるためならば、生きる意味とはなんだろう
社会的地位ならば、それを得る目的はなにか
国民の義務であるならば、それを守るべき理由はどこにあるのか

 だんだん哲学らしくなってきた。でもここで最も考えないといけないことは、哲学をする目的なんじゃないだろうか。そしてそれが、問題解決のための「行為と選択」なのだとしたら、常識を疑ってまでやるべきことなのだろうか。

 哲学的な問いをするときに、なんらかの答えが出るほうが少ないという事実を私は認めなければいけない。習慣はそれが習慣になりえた原因があるのだろうし、常識はそれが常識である根拠があるのだ。だからほとんどの哲学的問題は、考えるだけ無駄か、考えても分からないものばかりである。

 だがしかし、もしあなたが哲学を通じて今持っている常識よりも良さそうな答えを見つけれたとしたら、それは大発見に違いない。もうあなたは「人それぞれ」の考え方ではなく、確かに「自分の」意見を持っている。つまり、哲学とは「あなた」がより善い人生を送るための手段なのだ。


 とは言ってみたものの、結局はここまでの内容も「私の意見」にすぎない。世の中の哲学書やビジネス本、そしてこの記事にも当てはまるのだが、他人の言葉を読んで哲学を分かった気になる人は多い。しかし哲学の本質は、主体的に行う行為である。
 だとすれば、哲学を"する"ことに何らかの意義があったとしても、哲学を学ぶことにはどういう意味があるのだろう。

 例えば、19世紀頃から現代まで支持されている『功利主義』は「社会の幸福を最大化にする」ことこそが善い行為であると考える。そして実際にこれが現実の社会に反映され、福祉政策などが行われてきた。
 すなわち、今の常識にも過去の哲学が反映されている。だか「功利主義」で全ての問題が解決しているわけではない。だから「功利主義」も他の哲学者によって疑われることで、より善い社会が作られてきた。
 つまり学問における哲学とは、歴史と共に積み重ねられてきた思考の技術なのである。

 私達にできることは、過去の哲学を羅針盤にして、思考の海を旅することだ。だがそこで、誰もが納得できるような普遍的真理を探す必要はないし、そうする時間も足りないだろう。なんせ有史以来、誰も成し遂げたものはいないのだから。
 あなたは自分が住み心地の良い島を見つけるだけでいい。きっとそこにはあなたらしい答えが待っているはずだ。

最後まで読んでくれてありがとうございます