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ちょっとした昔話(後編)

こんにちは。
開いて下さりありがとうございます。
大学3回生ハットリです。

こちらは前後編の記事になっています。
前編を読んでから後編をお読み下さい。
前編はこちらです。↓

そして、昼休みが終わり、緊張感に包まれながら、体育館へ向かった。

記憶に有る限り、合唱の順番は1年2年3年の順でそして、1組2組3組の順番だったと思う。まあ、当時の私には指揮者のことで頭がいっぱいで、他の学年の合唱の歌声など聴ける状況では無かった。

そして、3年生に順番が回ってきた。といっても私は2組だったため、すぐには出番は来ない。1組が歌い始めるときには、私の緊張は覚悟へと変わっていた。そのせいか、1組の歌声はスッと脳に入ってきた。

そして、1組が歌い終わり、いよいよ2組の順番がやってきた。またしても、すぐに私が指揮をするわけではなかった。なぜかって、それは1クラスにつき、課題曲と自由曲の2曲を歌うシステムで、私は2曲目の指揮者だったからだ。

1曲目である課題曲(何を歌ったのかは忘れた)、覚悟に変わっていた緊張が、再び顔を覗かせてきた。そして、あっという間にすぐに沸くティファール1曲目を歌い終えた。いよいよ私の中で本番とも言えよう2曲目がやってきた。

結論から書くと、私は指揮者賞を取れなかった。なんなら、3年の他のクラスからは1人ずつ選ばれたが、2組からは1人も選ばれなかった。しかし、私は賞状を貰うことができた。この話については後で書こう。

そして、私はアルミ製の合唱コンクールや卒業式でしか使う用途のないひな壇から、合唱団と聴衆の間にある木製の台へと移動した。
体中の血の気が引いていく感覚がした。聴衆に礼をし、クラスメイトの方を向き、足を肩幅に開いた。そして、伴奏者の方を向き、指揮が始まった。

曲は「心の瞳」、拍子は4拍子だった。それだけは鮮明に覚えている。↓この曲です。

いざという時はできると自分自身思っているので、8の字にクラスメイトの方を見ながら指揮をすることができていた。また、自分自身では、緊張しながらも上手くできていたと思っていたが、後々聞くと、まあまあずれていたみたいだった笑。
そして、歌い終え、聴衆に礼をし、私と2組の出番は終わった。

そこからはあまり覚えておらず、1人で1足先に教室に戻った私は、緊張からの解放と指揮者賞を獲れなかった悔しさで涙がこぼれそうになった。(この頃から涙もろかったのか、自分)なので私は、机に突っ伏し泣いた。いや、まだ涙は流れていなかったため、正確には泣いているふりをした。(理由は、覚えていないのでタイムマシンでも開発して、当時の自分に聞いてみることにしよう)

そして、クラスメイトが続々と帰ってくるや否や、私の方によってきて慰めと労いの言葉をかけてくれた。それに対して私は、こらえていた涙がこぼれた。クラスメイトの気遣いへの嬉しさと自分の惨めさで感情がグチャグチャになっていた。

そして、担任と副担任の先生が手に何か持ちながら、教室に入ってきた。恐らく皆さんも勘づいていると思うが、手に持っていたのは私に対しての賞状だった。
私は教室の前に呼ばれ、賞状を受け取った。賞状には「ピンチヒッター賞」と書いてあった。多分私が野球をしていることを知って、それと掛かっているのだろう。

6年経った今、合唱コンクールが終わってから私が賞状を受け取るまでの時間で、賞状を作成したと考えるとすごい早い時間で賞状は作れると思い、価値は低いのではないかと冷めた考えをしている。
もちろん、当時はそんな考えなど微塵もなかった。

この賞状は、今も部屋に飾っており、見るたびにその当時の記憶が蘇る思い出の品となっている。

 ---------------おわり--------------- 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

後半も1000字程度に納めようと思っていたのですが、500字も私の想定を超えてきました。前後編のバランスが悪いのはさておき、私が書きたいままに書きました。
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 ----では、また次の文章でお会いしましょう---- 

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