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野球と私の関係性

4年前の今日7月23日、私の高校野球が終わった。
私はスタンドから声を精一杯出して応援していた。

私の高校は特別強い訳ではないが弱くもない。
いわゆる中堅校だ。
相手も同じか少し強いぐらいの高校だった。

しかし、負けるなんて微塵も思っていなかった。
強い、弱いではなく良いチームだと思っていた。

でも高校野球は残酷だ。
勝ったチームは延命し、負けたチームは死ぬ。
ゲームオーバーだ。

今回、メインで書くのは高校生〜現在の話だ。


野球は小学1年生から始めた。
入学式のとき、少年野球チームの先輩がビラ配りをしていた。
元々、テレビでプロ野球を見ていて興味があった。
だから、ビラを貰った時に野球がしたいと思った。
小学生の時は、勝った時は楽しく負ければ楽しくない。そんな感じで、何も考えず野球をしていた。
小学6年生のときは6年が私1人だったため、キャプテンもやってたけれど、このときからすでに周りに気を遣っていた。

人に指示してさせるなら自分が行動すれば良いと思っていた。その方が心が楽だから。この考えは今も自分の中にある。

このときは、プロ野球選手になりたいと思っていた。


中学生の時は、やらされる野球をしていた。
あえて、厳しいチームを選んだ。

指導者に指示を受けて、指示通りに出来なかったら怒られる。それでも、野球が上手くなりたかったから。ただその一心で野球を続けていた。
でも、野球が好きかどうか聞かれれば好きではなかった。

当時の試合は、相手チームとではなく自チームの指導者と戦っていたような感じだった。
あまり思い出したくない記憶だ。

けれど、同級生は好きだった。
クラブチームだったので、それぞれ違う中学校から集まっているが、楽しかった。
それぞれ別の高校に進学するため、一緒に野球できなくなるのは寂しかった。

プロ野球選手は自分にはなれない。このときにそう思った。

人生とは出会いと別れの繰り返しだ。

ここまでは序章だ。


そして、この記事のメインである高校生のときの話。


私は、スポーツ推薦ではなく一般で入学をした。
当時の自分の実力では、レギュラーを取れない高校だった。


大阪は圧倒的な2強に加えて、私立も公立も強い高校が多かった。
この高校を選んだ理由は、祖父母の家から自転車で通えることと、甲子園を狙えるチームだったからだ。

府外の高校という選択肢もあったが、3人兄弟の長男だったこともあり、家計に負担をかけたくないと思い、府内の高校にした。

実家は田舎で、周りの高校に甲子園を狙える高校はなかった。
だから、両親と一緒に話し合った結果、祖父母の家に居候することを決めた。

祖父母は喜んで僕を受け入れてくれた。
孫の顔を毎日見られることは嬉しいことなのだろう。

そして、入学式から少し経った日。
一般入部の希望者が教室に集められ、コーチが喋った。
「うちの高校は、本気で2強を倒して甲子園に出場するために練習してる。だから、生半可な気持ちで入部するな」
私はそれで怖気付くことはなかった。
私も本気で甲子園に出場したかったから。

コーチが話し終えると外に出た。
何をするのかと思っていた。
すると一般入部者全員で、インターバル走が始まった。学校の周りを走らされた。

かなりの距離を走らされた。
私は体力にはそれなりに自信があった。
それでもキツかった。けれど、辞めたいとは思わなかった。食らいついた。

一週間ほど走らされた。
日に日に人数は減っていった。
グラウンドに入れてもらえる頃には15人程いたのが、5人程にまで減っていた。

ただ、グラウンドで練習できる人数は限られている。そのため、それ以外はウエイトトレーニングや、グラウンド練習の手伝いをしていた。

また、野球が強い割に自主性を重んじていて、自主練習が多かった。
そのため、一年生の時はとにかく先輩の手伝いをしてた。
もちろん、自分の練習などする暇も無かった。

そしてあっという間に、夏の大会が始まった。
かなり勝ち進んだが、大阪の壁は高かった。
すごいと思っていた3年生が負けてしまった。
もちろん悔しかったが、それと同時に新チームが始まる。もうすでに勝負は始まっていた。

新チームになり、先輩の手伝いをしながら少しずつ自分の練習ができるようになった。
なので空いた時間は自主練をした。

初めて試合に出場したのは、B戦の練習試合だった。終盤の守備固めとして出場したが、特に何もなく私の高校初出場は終わった。
秋の大会もベンチ入りできず、スタンドからチームの敗北を見ていた。

そして、11月の末のB戦の遠征メンバーに選ばれた。
2試合あったが、2試合ともスタメンフル出場を果たした。また、このときに高校初安打も打った。

そしてこの時期に、自分が将来野球を職業にしたいと考え始める出来事が起こった。

同級生の一人がコーチに指導してもらうと聞いた。
その同級生はこの時期から少しずつAの試合に出ていた。自分はBチームの試合に少し出る程度だった。なので、自分も一緒に指導してもらいたいと思い、一緒に指導を受けた。

1時間半程、指導は続いた。
その時にコーチが、
「上のレベルでは狂ったように練習出来る奴がいる。そいつらがさらに上のレベルに行ける」
と言った。

そのレベルを目指したい。私はそう思った。

そして、冬練を迎えた。
ボールを触る機会が減り、ウエイトトレーニングやランメニューが多くなった。
しんどかったが必死になって、置いていかれまいと思っていた。

そしてそこから、私は徐々に狂い出した。
早い時は4時半から、遅くても6時から自主練を始めた。
6時半からは、先輩の手伝いがあり、練習量が減るからだ。

今考えると、当時の自分を尊敬できる。

そこから引退するまで早朝練を欠かしたことはなかった。雨でも室内練習場や校内で練習した。

そしてコロナが流行りだして、学校での全体練習ができなくなった。

この期間に私は、このnoteと出会った。
この話はまた別の機会に書く。
この期間も、自主練や家が近い同級生と集まって練習したりと、自分の能力を高めるように意識した。

そして半分に分けて練習をしたりと、段階を踏んで練習を再開することができた。
しかし、甲子園が無くなった。
本当に当時の3年生を見ていると、自分のことのように辛くなった。
一緒に野球をした期間が長かったため、よけいに辛かった。

そして、夏の大会。
相手もいわゆる中堅校だった。互角の試合になるとは思っていたが、負けるとは思っていなかった。全員が。
ロースコア、ビハインドで試合は進んでいった。
進んでいくにつれて、負けの2文字が頭をよぎる。
そして、私にとっては2度目のスタンドから、夏の終わりを見た。

しかし、悲しみの余韻に浸る暇などなく、自分たちの代になった。

秋の大会までは2ヶ月を切っていた。
その間、練習試合が多く組まれていた。
秋のメンバーを決めるためだ。

私はAチームには入っていたものの、1試合目には出れず、2試合目のスタメンなどの起用が多かった。
結果も波があり、思い通りにはいかなかった。

そして、秋季大会のメンバー発表。
私は背番号18をもらうことができた。
すごく嬉しかった。ただ、メンバーを外れた同級生もいた。

高校野球は残酷だ。実力主義だから。

そして秋季大会。
あっけなく3回戦で散った。
私の出番も無かった。
先輩たちのときとは比べものにならないぐらい、悔しかった。

この負けが私を成長させたと思う。
あまり考えずにプレーしていたが、これではレギュラーになれないと思い、1つ1つのプレーに意図を持たせた。すごく考えた。野球と真摯に向き合った。

そして秋季大会が終わり、私はBチームの練習試合に出場することが増えた。
悔しかった。Aチームでレギュラーとして試合に出場したかった。

その結果、今の私の癖がついた。

自分の思い通り出来なかったとき、周りよりも劣っていたときは自分を責める。気が済むまで責めて責めて、思い通り出来なかった原因、どうすれば周りより優れることが出来るのかを追求して、そしてまた責める。

そして、あるかすら分からない次のチャンスで結果を残すために。できるように何度も何度も繰り返す。
周りよりも質も量も一人でこなした。

考えて考えて試行錯誤して何度も何度も。
周りが真似できないようなやり方で。
すると周りは言う。
「すごいな!」
「しんどくないん?」
それさえノイズに聞こえた。
それほど結果に執着した。
自分からすると、自分のその行為がすごいとも思わないし、しんどいとも感じない。

考えること、試行錯誤することが楽しく、自分の思い通り出来たときはすごく嬉しい。


この原動力の正体は「好きだから」
それ以外の何物でもない。

そして今年も冬練が始まった。
去年とは比べものにならないぐらい、しんどかった。部活に行きたくないと思う日もあった。
それでも休まなかった。
理由は簡単だ。

もう2度と負けたくないから。

ただそれだけだ。
負けるってすごく嫌。本当に何においても負けたくない。元々負けず嫌いだったのかもしれない。

途中で怪我をしたが、実践練習までには回復した。
そして厳しい冬を超えて、実践練習が始まった。
紅白戦ではスタメンに選ばれることが多かった。
しかし結果は出なかった。

私はまたBチームで試合に出場していた。
Bでは結果は出る。
理由は簡単だ。相手のレベルも必然的に低かったから。

正直私は、春季大会のメンバーからは外れると思っていた。
しかし、春季大会では20番を貰えた。

しかし、4回戦で負けた。
秋季大会同様、出番は無かった。
悔しい。メンバーに選ばれても試合に出場できない自分がすごく悔しかった。

そして、最後の夏の大会までの間もBチームでプレーすることが多かった。
最後の夏のメンバーは、最重要だった。
1番メンバーに選ばれたかった。

それでも結果は出なかった。
すごい1年生も入ってきて、焦っていた。

そして最後の夏は、背番号を貰えなかった。

何度も書くが
本当に高校野球は残酷だと思う。

実力主義だ。

悔しかった。なんて一言では表せない。
あの時が人生で一番泣いた。

朝早くから、自分を起こし朝食を作りお弁当を作ってくれた祖母や叔母。自分の結果や調子を聞いてくれる野球好きな祖父。
両親はもちろん、本当にこの3人がいなかったら、野球に集中できなかった。
書いている今も思い出して泣きそうになる。

本当にいつか恩返しがしたい。この恩返しを野球選手になって返したかった。

高校野球を引退したあとも練習を続けた。
そして、高三の冬に大学の練習に行った。
しかし蘇る中学生の頃の記憶。あの時と同じやらされる野球をしていた。
何より、大学生達が好きで野球をやっていなかった。

だから、クラブチームで野球をすることにした。それが1番野球選手という目標への近道だと思ったから。
そして、クラブチームへ入り初めての練習試合の後の合同練習の時だった。
外野ノックの送球の時に少し肩に違和感を感じた。入りたてで関係値も築けていなかったので、誰にも練習を抜けるとは言えず、そのまま続けた。
そして、徐々に肩の痛みは増していった。
それでも痛み止めを飲み練習を続け、試合に出場し続けた。痛いと言えば休まざるを得なかったから。実践経験を積みたかったのと少しでも早く上のレベルへいくという理由でプレーし続けた。

そうして、1年目が終わりそこそこの結果を残して、来シーズン期待の若手としてチーム内でも賞を受賞した。

高校生の時も肘が痛い時期があったが練習を続け、次第に痛みが無くなったことがあったから大丈夫だろうと思っていた。

そして2年目のシーズンを迎えた。
しかし、1年目よりも出場機会が減った。理由は、大卒の人が入ったから。私よりも実力があったから。年齢なんて関係ない実力主義の世界。
だから、悔しかったし焦った。
それに加えて、肩の痛みが増していく一方で思ったようにプレー出来なくなった。徐々に起用法も雑なになった。

1年目の終盤頃から、躁鬱の症状はあったがそれでも野球が好きだったから、誰にも言わなかった。

けれど、6月頃の練習試合で走塁の判断ミス、エラーをした。
成長していなかったのかなと、高校の頃よりも練習量も減ったし、レベルの低い環境を選んで成長したと勘違いしていたと自分自身に幻滅した。

そしてまた、自分を責めた。

肩はとっくに壊れていたが、心に入っていたヒビが完全に壊れた。
そして練習に行かなくなり、大学にも行かなくなり、バイトも辞めた。
でも、野球から離れることは嫌だったから弟のチームの臨時コーチをしていた。
けれど、年下と接するのは気を遣う。しかも中学生で、自分の中学生の時のチームとは雰囲気が違った。
だからすごく難しかった。
自分の感じたことをどのようにどの程度伝えればいいのか。臨時コーチである自分の意見をチームに伝えていいのか。

そもそも、根本には教えるのが苦手というか嫌いというのがあった。

そしてその気持ちに追い討ちをかけるように、11月頃、睡眠障害の症状が出始めた。
はじめは、ただ寝れない日が続いているだけだと思っていた。徐々に症状がひどくなった。さらに人に会うことが怖くなっていった。
そして、臨時コーチを辞めた。

大学にも行けなくなった。
しかし誰にも言えず、そのままにしていた。
両親には大学に行っているふりをしていた。

しかし嘘はバレる。
この世の不思議の1つだと思う。

両親には怒られた。もちろん、自分に非があったから仕方がないと思った。

ただ寝れないことによって、昼間に寝てしまうこもがたまにあった。
それが母にばれてすごく怒られた。
けれど、これに関しては自分に非がないとは言わないが、それほど怒ることなのかと感じた。

今の私の状況を書いて終わりにする。

電話に出ることが怖いし、LINEを返信するのも怖い。
もちろん、人に会うことも怖い。
眠れないし、眠れたとしても途中で目が覚めることもある。

自分自身の原動力であった野球が無くなったら、すごく脆かった。

私にとっての野球とは酸素だった

それに気づいたのは、今年の夏の母校の試合を見たとき。ぜひ甲子園出場を果たしてほしい。

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