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「プロ・アスリート」を定義する意味

「プロ・ランナーの定義とは?」というTwitter投稿が、新谷仁美さんツイート、それを受けての横田真人コーチnote ↓を起点に相次いでいる。

新谷仁美さん&横田真人コーチは、純粋プロ契約ランナーとしてチームを立ち上げて、日本で(実業団以外の)プロランナーという未来を拓くビジョンを持って、行動している、その生々しい経験と意思を感じる文章だった。

これは「そもそも"プロ"とはなにか?」という定義の問題なんだけど、単なる呼び方ではない。プロアスリートとは? なぜその存在は正当化されるのか?どうすれば競技の価値を社会にひろく認めさせることができるのか? そんなアイデンティティ探求の問いだと思う。

<2021/3/13追記>
最初このnoteは「あーでもないこーでもない」的な脳内探索として書いたのだが、1年たって、結論でました。

" よくよく考えるとプロフェッショナルであるかどうかを決めるのは自分ではなく他人であるなと思います。

「この人プロフェッショナルだな〜」と他人に思わせた瞬間本当の意味で『プロ』になる。"

とは福島のプロ・トライアスリート、Yuki Abe/阿部 有希さんnote ↓

「今までは"ティーチング・プロ"と”競技プロ”を区別したくて、教えてなかったけど、この区別を外して、少し教えます」という話。ゴルフでは教えることが本業のプロ資格保有者が多数派。ボーリングではほぼ全員がそちら(もしくは趣味として割り切ってプロ資格を持っている)。なので、意味のある区別ではあった。

しかし、仕事とはなにか? と本質から考えると、結局は「おカネを払う相手」が評価するものだ。

CM出演レベルの著名五輪メダリストでは、国民的知名度が「おカネを払う理由」となるので、競技成績=おカネ、という関係が成立する。

それでも、五輪金メダリストの賞味期限は普通2−3年、枠はせいぜい数名〜20名くらいではないだろうか? それ以降は、TV(=広告代理店や芸能事務所)抜きに、自分の活動に対して、価値を見出しおカネを払ってくれる会社や個人ファンが必要になる。

結論:おカネを払ってくれるファンがいたらプロ

ここから先は、前提となる情報や考え方を整理しておきます。(追記してるので、矛盾などあれば指摘ください)

語源

「私の考えるプロとは◯◯です!」と表明する自由は誰にでもあるんだけど、ここは公共空間インターネット、まずは言葉の定義を明確にすることでブレを防ごう。

語源はラテン語の "professus" 。pro=前へ、fessus=言う。神に向かい=社会に対して、宣言するということ。「私は高い倫理観と技能を持っています」と世間に宣言した人ということだ。

歴史的には、「神への告白、宣誓した人、神の宣託を受けた人」を指す宗教用語であり、「プロ」といえば聖職者のみを指した。医者や弁護士など人の運命を預かる仕事も古代から「プロフェッショナル」とみなされ、さらに会計士や大学教授などへと拡大され、今に至る。

ニーチェ先生によれば19世紀に神は死んだので、現代社会では、かわって神のように大きな存在に対して、自らの高い倫理性と技能とを宣言することになる。では、現代のエリート・アスリートにとって「神のように大きな存在」とは何か? それが「プロ・アスリート論」の真の意味だ。

ちなみにラテン語とは日本でいえば古文漢文、欧州インテリ層は中高と国語で習う(と英国イートン校出身者が言っていた)ので、西洋人はこの感覚でプロという言葉を使っている。そもそも陸上競技に意味を見出したのは西洋文明で、だから第一回近代オリンピックのメイン種目であったわけで、彼らの思考を理解することは、競技自体への理解ともなる。

辞書的定義

こうした経緯から、英語で "professional" とは「特殊なトレーニングで身につけたスキルを使い、尊敬される仕事をする人」(Cambridge Dictionary)といった意味合いだ。この点で、コンビニのレジ打ちとか単にお金を稼ぐ "Job" と区別される。

江戸の飛脚は仕事で走っていたけど、「荷物運びのプロ」であっても「走ることのプロ」ではない。西島秀俊とつきあい結婚に至る一般女性が「プロ彼女」と呼ばれるのは、どんなトレーニングを積んだのかはわからないけど何かすごいスキルがありそうだし尊敬もされてそう、ただお金は(交際時には)もらっていないと思われ、「かぎりなくプロに近いアマチュア」という比喩だ。むしろ炎上ラッパー?モリタユノ氏とかのがプロ彼女か。

定義の1つに "someone who does a job that people usually do as a hobby:" =普通は趣味でやることを仕事にする人、がある。

そこで「プロ・アスリート」の辞書的な定義とは、普通の人が趣味でやってるスポーツを仕事にしている、そのためのトレーニングを積んできて、周囲から評価・尊敬を受けている人、といえる。

「走って生活できてるならプロじゃん?」という意見もあるだろう。このズレは、英語の "professional" のコアに「尊敬」などの価値的・主観的な要素を含んでいるから。欧米キリスト文化(とくに独英米系プロテスタンティズム)の勤労の価値観に由来するものだろうけど、日本の職人文化ともよくフィットするので、日本人はあまり疑問を持たなそう。ここは労働契約を軸に客観的に考えることもできる。(けどややこしいのでここでは除外)

「プロ論」の不要な分野

プロ・アスリートであっても、「プロの価値とはなにか?」と考えなくて済む立場はある。プロ野球、Jリーグ、競輪など完成された分野では、競技結果を出すことがプロとしての存在証明になり、プロであり続けることができる。これは普通のエンタメビジネスと同じことで、ヒット曲を出せるミュージシャンはレコード会社の仕組みに乗っけてもらえるから、ただ良い歌を作ってファンに届けていればプロとして活動できる。その仕組みができている。

ここには大きな前提条件がある。「ビジネスとしての仕組み」が完成しているということだ。国民的な認知があり、チームは多くは日本を代表するレベルの大企業を母体に、大手メディアや政府自治体の協力も得て、運営されている。

この場合に、「価値」について考えるのはチーム(もっといえば有名大企業)の仕事であり、アスリート側ではない。

共通した状況は、オリンピック選手にもある。オリンピアンとしての価値は、オリンピックという舞台が創ってくれるから。IOCやJOCが作り出した価値の中で、アスリートは単に競技だけを考えていればいい。

「SNS的世界」の誕生

ではなぜ今、トップランナー方がプロの定義を語るのか?

横田さんも(引用してる為末さんも)言うように、背景には大きな世の中の流れがあり、「プロとアマの差が曖昧なSNS的世界」が拡大している。SNS的とは、言ったもの勝ち=客を捕まえたもの勝ち、的な世界だ。

これ自体は良いことだと思う。お金出す人が納得して、新たな職が誕生して、周りに人たちがHAPPYなら、社会に新たな価値を創出したということだ。わかりやすいのはスポーツ分野Youtuber。競技をする必要すらない。たとえばドリブルデザイナー・岡部将和さん(再放送あります↓)

非ネットでも、地域密着で、地場の企業相手の講演なども絡めて成立させてる例はトライアスロンだけでも複数ある。五輪代表枠なら椅子取りゲームだけど、このポジションは「創造したもの勝ち」だ。

長距離ランナーに「プロ論」が必要な理由

こうした変化は、伝統的ポジションの人たちに、

「え? 強い者から順番にプロになるんじゃなかったの?」

的な戸惑いを生むかもしれない。単純なようで、大事な問いだと思う。

「じゃあなぜ私は走っておカネもらえてるの? 私にその資格はあるの?」

的な存在価値を問うことにつながるから。

特に陸上の中長距離では、

・純粋なプロ契約ランナー(個人事業主としての業務委託契約)

・実業団ランナー(雇用契約が基本だがプロ契約も混在)

・市民ランナー(県職員時代の川内優輝さんなど)

と立場がいろいろだ。実業団は、一般にはプロと見られがちだけど、フルタイムで仕事している方も多い。いわゆる市民ランナーが「残業なし、活動費補助」になれば同じ。あるいは社会人アメフトのような立場だ。(ちなみに最近、有名社会人アメフトチームの運営の方と話して、彼らは完全にビジネスパーソンなんだと理解した。※外国人など少数プロ契約は存在)

川内さんの「市民ランナー」としての立場のブランド化は、さすがに特殊事例ではある。出場料を受け取れない=大会側にとっては低コスト=世界中から招待=本業で生活保障されつつタダで多数出場=ギネス記録=世界的オンリーワン、と完璧な上昇気流に乗って、プロ転向の基盤にもなった。ここまでは真似できなくても、フルタイムワーカーとして世界選手権Top10まで入れることを示しているわけだ。(プロ転向で練習量増やしたら低迷しているのも、逆にフルタイムワーカーの可能性を感じさせもする)

そんな群雄割拠とSNS化の中で、競技成績だけでプロ契約とれるトップランナーが、自身の価値を問い直すのは必然といえる。単なる呼び方、定義の問題ではない。アイデンティティと理想についての探求なのだ。

横田さんプロ論についての私的解釈

上記noteで横田さんが提起されるのは、

どうすれば、日本社会がプロランナーの価値を認めるか?
真に凄いものに尊敬とお金が集まる未来をどう育てるか?

という未来創造的なストーリーなのだと理解した。

競技するだけなら、どこでも実業団に所属することはできるだろう。しかし新谷さんは純粋なプロランナーであり、横田さんはそのマネジメント。その新しいあり方の確立を目指している ↓

2019年は実業団の移籍制限が公正取引委員会まで動いて大きく緩和された。一方で純粋プロを目指す横田新谷チームはNIKEから契約終了されてしまった。そこで今年「積水フェアリーズ」に加入できたが、高橋尚子さんはじめ最高レベルの伝統があり、普通なら単純吸収されるところだろう。そこにプロとして業務委託コーチとして入っている。五輪に向けたトレーニングの継続性を保つメリットがあるのだけど、積水にとって面倒な仕組みを用意してもらっている。

この期待に応える必要がある。その流れでの、彼のプロ4条件だ。(上記note参照

①競技結果により生計をたてていること
②スポンサーor所属企業/支援者が望む結果や価値を提供していること
③+αの付加価値を提供できていること
④ぶれない競技哲学を持っていること

横田さん個人というよりは、TWOLAPSという組織の企業理念というべきかもしれない。

①②の結果については、お金出す人が納得してればOK、それで職業スポーツとしては成立する。

たとえば「大迫傑選手、設楽悠太選手、神野大地選手、新谷仁美選手」と例示されている方々は、競技成績(①②)だけでプロ契約は取れるだろう。でも、それだけではない、と言っているのだ。なぜか?

おそらく、それは対スポンサー、対コアな陸上ファン、という狭い世界限定での閉じた関係であって、「一流プロの価値」を世の中全体にひろげることができない、という考えによるだろう。

そこで、③④の価値、哲学、が登場する。これは過去2年以上の横田チームの契約獲得営業含めた経験からうまれた、深みと重さのある基準だと感じる。

「結果の価値」は実は曖昧

なぜ競技結果①②だけではたりないのか? との点をもう少し考えてみたい。 

それは、競技の価値が日本社会に広く認めさせるため。そして「陸上競技におカネを出す」という市場が拡大し、競技全体が成長し、ランナーもより自由になるため。そう僕は思っている。競技を育てるためには、競技外の精神的な価値が必要ということだ。

よくいわれるのは、

「スポーツは結果が明確」

それは、本当か?

42kmを1時間59分で走れること自体には、何の価値もない。速さなら自動車、移動効率なら自転車のが圧倒的に高い。それでも陸上競技において価値があるとされているのは、社会がそれを、価値があると認めているからだ。

その価値が認められていないところでは、認めさせる努力が必要。

現実、五輪メダルや、箱根駅伝の優勝には、日本全体で価値が認められている。しかし、箱根よりよっぽどレベルの高い「世界選手権の決勝進出」はどこまで認知されているか? 新谷さんのいるのは、まさにそんな場所だ。

この認知を世の中全体に拡大させていくために、超トップ層のプロにしかできない役割はある。

一方、この価値を認めさせるとは、横田4要件では②の話だ。「相手が望む結果」とは1−1の相対で決まるから、①の競技結果もスポンサーが納得できるレベルの結果で構わない、ともいえる。そう考えると、横田要件は汎用性高く、実は多様なプロのあり方を含んでいる。

決して、「このレベル以外、プロと名乗るな」的な小さな話をしているのではない。もしもそう捉えたのなら、それは大きな誤読である、と言っておく。

このテーマ、八木勇樹さんも10以上の連続ツイートされて ↓

「魅せる選手」になる事が重要、と強調する。同じ流れだと思う。(八木さんは、経営者であり営業マンであるという一面あり、この視点からの発言も興味深い。ちょっと別テーマなのであとで書くかも)

言葉について深く考えるということ

以上、考えすぎかもしれないけれど😁、「神のように大きな存在に対して、自らの倫理性と技能とを宣言する」という語源から一貫した話かなとも思う。すると「社会への倫理的影響力」に行き着くだろう。

きっかけの横田コーチからも

そう外れてもいないようなので、詳しく書いておきました。「言葉」について深く考えることは、スポーツでこそ、重要だと僕は思っています。その活用法は引き続き、ツイッターフェイスブックで書いてゆくので、興味ある方、フォローくださいませ。

追記:note公式マガジン #スポーツ記事まとめ に採用いただきました。たぶん4回目。

弘山勉さんはあらゆる意味で一流のプロフェッショナル。著書『最高の走り方』にコンパクトに凝縮されている。あとでレビューしたい

(初稿2020/2/5, 3/8追記)

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